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哲学書を読んでいます。

Joined May 2016
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ご指摘頂きありがとうございます。個別的、偶発的な発言をいわばダシにして社会一般について述べている当該ポストは個別と一般の媒介が充分になされておらず、ご指摘の通りだと思います。一方で当該ポストが無媒介なものになっているのはむしろ概念化の不足故であるでしょう。問題は単にある種の道徳的
個人の偶発的な発話と、そこに反映された個人の倫理観を社会全般のものだとむりやり一般化している気がします。あと、ここにヘゲモニーの概念を適用するのは間違っているとは言えないでしょうが、単に理論的原理を用いて概括的な説明をするのではかえって現実から離れてしまうのではないでしょうか。
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現実的には「責任そのもの」は「責任をとる」という罰則(的な行為)によって、外在的に規定されます。「窃盗」はまさにそれであり、「差別」や「ハラスメント」とは違いその即自存在は罰則によって外在的に規定されている。「窃盗」の概念的な規定はそれで尽くされている。
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だからこそ、「窃盗」を志向すること、つまり「窃盗」の可能性の示唆(今回の場合は窃盗の禁止をわざわざ言うこと)は力を持つことができません。「私たちは皆、盗みを働く可能性がある」は、道徳的な拘束力を持ち得ないのです。対して「差別」「ハラスメント」はその可能性の示唆が拘束力を持つ。
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SDGs等での「差別禁止」「ハラスメント禁止」のような道徳的「教化」が一般企業の内にまるで常識の様に入り込んでいるのに対し、「盗み禁止」を面と向かって言う様な組織は「ゲス」だとされる。これは単に反差別・反ハラスメントの道徳的イデオロギーが反窃盗よりも権力を握っているからに過ぎない。
こんな非道なこと言われたら私も即座に辞退する。こんなゲスの下で働くに能わず。
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面と向かって「盗みを働いたら処分する」と警告されてキレるような人間が、「ハラスメントを働いたら処分する」と警告されてもニコニコしているのは何故か、という話である。道徳的イデオロギー内における序列の存在。
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この「他人の哲学は一旦関係なしに、己の哲学的主張の必然性のみを整備しておく」という態度について、自分はニーチェの言う「星の友情」をその様に解釈している。我々は目的も航路も違う2艘の舟なのであり、友としてであれ敵としてであれ、互いに「一層敬意を払う存在」になるために疎遠にならなくて
ここで言われている「永井氏とは一旦何の関係もなく」、「己の哲学の必然性だけを完全に辿れる様に」するということの重要性は、本当に仰る通りだと思う。議論は何らかの事柄を肯定・否定する以前に、その議論(と見做されているもの)自体の仕組みを検証できる可能性が無ければ話にならないだろう。
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はならない。星の友情を「信じる」とはそういうことだろう。
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ここで言われている「永井氏とは一旦何の関係もなく」、「己の哲学の必然性だけを完全に辿れる様に」するということの重要性は、本当に仰る通りだと思う。議論は何らかの事柄を肯定・否定する以前に、その議論(と見做されているもの)自体の仕組みを検証できる可能性が無ければ話にならないだろう。
Replying to @manma2020
せめて植村氏が考察される必然的な哲学的態度と、そこで(これもまた)必然的に含まれるとされる誤謬について自分の哲学として(永井氏とは一旦何の関係もなく)体系化し(己の哲学の必然性だけを完全に辿れる様にし)、それが済んだ後で、永井氏の哲学がそこにリンクする点があるか否かを検討する
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その議論についての検証が検証として最低限成立するための基準として残しておかなければならないのが、自身の哲学(的主張)における「必然性」なのであって、これが突き詰められていなければ話のズレすらズレとして精確に認識されないまま、ただ、言いたいことだけを言って終わってしまう。
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キルケゴールは概念を厳密に規定する訳ではないので、「関係が〜関係」という言葉自体の精確な理解は厳しいと思います。むしろ同じ章内で「人間は絶望する瞬間ごとに絶望を自分で招いている」とか、限りなく言い換えに近いことを言っているので、それらと関連させて比喩的に捉えた方が良い気がします。
キルケゴール『死に至る病』の冒頭、「関係がそれ自身に関係する関係」みたいな書き出しって、どれだけ重要なんですかね。 これがわかんなかったら何もわかんないよってレベルで重要なのか、それとも別にそこまでって感じなのか。(少なくとも、ここだけ読んで分かるような文ではないだろうけど)
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なので、それが理解出来ないと全てが理解不能であるような根本概念ではないが、他の表現との比喩的な連関によって全体の把握が深まるような言葉ではあると思う。
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農作物を消費する人と農家(生産者)の間の溝、などとは全く違う意味でこの「溝」は問題とされているけれど、それは文化的な創造行為が結局は我々の人生の外化であり、そこでの創造物が人生という鑑賞物の雛形だという理由からだろう。人生はその創造行為がそのまま創造物へと転化するような存在者であ
ホンマにガチコレなんよなぁ。10代や20代の頃は、目の前に広がる美しい音楽や映画、絵画や物語の圧倒的な世界にただ魅了され、その表現を生み出す人たちは自分とはまったく違う、手の届かない遠い別の星に住む特別な存在なのだと思い込んでいた。 30代、40代と日々の慌ただしさや生活の重圧にもまれながら、それでも文化やアートに救いを求め、限られた時間の中で作品に触れて心を震わせる一方で、「消費する側」としての自分の限界や、作り手との間に横たわる途方もない隔たりにどこか切なさを感じてきた。 そして50代、60代という人生の円熟期を迎え、表現することの苦しみも、それを何とか形にして世に送り出すことの孤独も、そしてそれをただ受け取り、お金を払って味わうことの意味も、その両方の重みが見えてきた今だからこそ、この言葉の持つ突き刺さるような現実味が深く胸に染み入る。 文化やアートを「消費する人」と「創造する人」のあいだにある溝は、私たちが想像するよりもあまりに深い。 どれほどお金を払い、どれほど熱心に愛を注ぎ、どれほど素晴らしい感想を伝えたとしても、ゼロから血を流し、脳の血管が切れるような思いで世界を構築し、表現を生み出す側の孤独とプレッシャーの領域には、決して踏み込むことはできない。その境界線の向こう側とこっち側にある決定的な断絶。 ただ楽しむだけの客席から、命を削って舞台を作る創り手側へ移ることの途方もなさと、その溝の深さを知る者だけが辿り着く、文化という世界の切なくも厳かな真実に、深くうなずかされます。
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る為、創造物(人生)への憧憬はそのまま創造行為(生)への憧憬へと転化する。文化に傾倒することはその文化を創り出す生への傾倒に必然的に落ち込むことになる。
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「すべてを金銭的価値に還元」するだけなら何ということもないが、実際には資本主義はそれとは真逆のフリをするのであって、資本の増殖の下に「個人の能力の発揮」とか「人間的成長」とか「夢の実現」といった概念が、まるで自律性を持つかのように働いている。企業の利益増大と自己保存に過ぎない過程
ぼくは左翼ですから資本主義は悪だと考えています。疎外された労働、搾取と格差、不労所得という退廃を生み出し、すべてを金銭的価値に還元し、人々を分断し、争いと憎しみをもたらすのが資本主義です。しかしこの地球にはもはや資本主義を成長させる余地はありません。次を考える時に来ているのです。
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に奉仕する為にはむしろそうした「自律性」が必要とされ、個人が「自由に」、「自律的」になればなるほど、資本増殖の過程はより強固になる。厄介なのは「自由」や「自律」の根底には企業の自己保存しか存在しないのに、我々にとってはそれがまるで自らの生活や人生の持続に見えるということだ。
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何かを読んだらその影響を個人の能力として発現しなくてはらならない(でなくては意味がない)と考える人と、何かを読めること自体が能力の発現であると考える人との溝は深い。
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