ここで言われている「永井氏とは一旦何の関係もなく」、「己の哲学の必然性だけを完全に辿れる様に」するということの重要性は、本当に仰る通りだと思う。議論は何らかの事柄を肯定・否定する以前に、その議論(と見做されているもの)自体の仕組みを検証できる可能性が無ければ話にならないだろう。
Replying to @manma2020
せめて植村氏が考察される必然的な哲学的態度と、そこで(これもまた)必然的に含まれるとされる誤謬について自分の哲学として(永井氏とは一旦何の関係もなく)体系化し(己の哲学の必然性だけを完全に辿れる様にし)、それが済んだ後で、永井氏の哲学がそこにリンクする点があるか否かを検討する
農作物を消費する人と農家(生産者)の間の溝、などとは全く違う意味でこの「溝」は問題とされているけれど、それは文化的な創造行為が結局は我々の人生の外化であり、そこでの創造物が人生という鑑賞物の雛形だという理由からだろう。人生はその創造行為がそのまま創造物へと転化するような存在者であ
ホンマにガチコレなんよなぁ。10代や20代の頃は、目の前に広がる美しい音楽や映画、絵画や物語の圧倒的な世界にただ魅了され、その表現を生み出す人たちは自分とはまったく違う、手の届かない遠い別の星に住む特別な存在なのだと思い込んでいた。
30代、40代と日々の慌ただしさや生活の重圧にもまれながら、それでも文化やアートに救いを求め、限られた時間の中で作品に触れて心を震わせる一方で、「消費する側」としての自分の限界や、作り手との間に横たわる途方もない隔たりにどこか切なさを感じてきた。
そして50代、60代という人生の円熟期を迎え、表現することの苦しみも、それを何とか形にして世に送り出すことの孤独も、そしてそれをただ受け取り、お金を払って味わうことの意味も、その両方の重みが見えてきた今だからこそ、この言葉の持つ突き刺さるような現実味が深く胸に染み入る。
文化やアートを「消費する人」と「創造する人」のあいだにある溝は、私たちが想像するよりもあまりに深い。
どれほどお金を払い、どれほど熱心に愛を注ぎ、どれほど素晴らしい感想を伝えたとしても、ゼロから血を流し、脳の血管が切れるような思いで世界を構築し、表現を生み出す側の孤独とプレッシャーの領域には、決して踏み込むことはできない。その境界線の向こう側とこっち側にある決定的な断絶。
ただ楽しむだけの客席から、命を削って舞台を作る創り手側へ移ることの途方もなさと、その溝の深さを知る者だけが辿り着く、文化という世界の切なくも厳かな真実に、深くうなずかされます。








