マンマのさんま (@manma2016) header
マンマのさんま (@manma2016) profile picture

哲学の感想をプラプラと。

ぷりぷり県
Joined October 2016
Photo by マンマのさんま (@manma2016)Photo by マンマのさんま (@manma2016)Photo by マンマのさんま (@manma2016)Photo by マンマのさんま (@manma2016)Photo by マンマのさんま (@manma2016)Photo by マンマのさんま (@manma2016)Photo by マンマのさんま (@manma2016)Photo by マンマのさんま (@manma2016)Photo by マンマのさんま (@manma2016)Photo by マンマのさんま (@manma2016)
(唯一の)端的な現実性は無内包なので、内容の変化にそくさないのは、おっしゃる通りだと思う。 ただ、〈私〉がどれだけ持続するか(という長さ)が重要な問題になるというお話には、引っ掛かる。〈現在〉(〈私〉)で重要なのは、その類例のなさが、針の様なものに模して、そうした構築物になってしまい、
〈私〉とは唯一の現実性のことなので、このメビウスの意識状態や身体が変化しても、その唯一の現実性は同一であり続けるという意味です。――〈私〉の持続可能性については永井氏も同意するはずです。 xitter.cf/miyataketetsuo/status/…
1
1
2
その中の(例外的な)一点として位置付けられてしまう事ではないかな。なので考察すべきは、本来の〈現在〉と、そうした構築物との間にある矛盾(ないし齟齬)だと思う。持続の長さという、既に針として成立してしまってる時間だけ調べても、こうした〈現在〉の問題は解明されないのではなかろうかと思う。
1
そうしたご飯の万能の力を肯定しつつ、それ自体が、おかずとして素晴らしいと歌い上げた、放課後ティータイムの「ごはんはおかず」という名曲がある。 これは単にご飯をおかずと見なしたものではない。一方でご飯が主食である事を全肯定した上で、(逆説でなく)「寧ろ」でご飯をおかず化させてるのだ!
Replying to @miyou_satou
「ご飯か、パンか」の係争で白米の対立項として小麦が上げられるが、それを再び「おかず」という副次的な地位に転落させるちからがご飯にはある。 餃子定食しかりお好み焼き定食然りラーメンライスセット然り。 はたしてパン(小麦)にご飯を副次的地位に転落させるだけの力があるだろうか?
4
疑いうるというのは、このときじつは、精神が錯乱状態にあるのではなく、むしろ言語の側が錯乱状態にあり、したがって以前から存在するその言語をそのまま使うことができてはいないのではないかと、あるいはむしろ、そのどちらであるかを決定することはできないのではないかと、疑いうるということ。
錯乱状態などでなくとも、たとえば自由連想法のようなものが意味を持ちうるとされるのも言語的意味の側の安定性に対する強い信頼に基づいている。精神状態に対する言語的意味の安定的な独立性・自立性がなぜそれほどまでに信頼されるのかは一つの謎でありうる。
1
11
1
41
「以前から存在するその言語をそのまま使って描写・表現・表出・可能で、そのことによって錯乱状態の実態を他者に伝達しうる」のか疑わしい状態というと、「言葉のサラダ」辺りが顕著だと思うけど(今までの言葉の在り様自体から異なってる可能性があるので)、此方のお話はその方向で考えていいのかな?
Replying to @hitoshinagai1
人間精神そのものよりも強いというのは、精神の錯乱状態でさえも、以前から存在するその言語をそのまま使って描写・表現・表出・可能で、そのことによって錯乱状態の実態を他者に伝達しうる、といういこと。(実を言えばここは疑いうるのだが、精神分析家等精神医療者などもなぜかここは疑わない。)
此方のお話もよく分かる。 ヘミングウェイは、戦争で得た勲章やケガを誇りにしてたそうだし、内村鑑三も、当初は『義戦論』をといたり、戦争で日本が勝つと大喜びしてた。 (良くも悪くも)一つの立場に固まった人より、内面が二つの立場に引き裂かれてる人の言葉に、人は影響を受けやすいのだと思う。
Replying to @madanaizo
ASKAと関係ないんですが、詩人の藤井貞和が「教師志望者が「戦争の好きな人はいない」と言った時「その表現は戦争を正当化する論理として使われる言い回しと同じだ」と、自分でもどうかと思う程なじった話が好きです。「子供を戦場にかりたてる力を持つ教師だけが反戦家であることが出来る」は重い
6
これ、ウィトゲンシュタインのチェスの駒に冠を被せる比喩の話では?
これも密です
6
言語もまた人間社会の産物ではあるのに、法や貨幣や人間精神そのものよりも強く、人間社会の壊滅的状況においてもなお、そのことからの影響をほぼまったく受けずに、むしろ逆に、その状況そのものをあたかもその外部からのように描写することさえできる力を持ち続けるのは、なぜであろうか?
2
34
2
129
非常に重要なお話だと思う。 虚無と対峙したナウシカ、業の深いヴ王だからこそ、墓所の主の宣教では、「元よりない」とされてしまうものに敏感になってる。 一方、希望の体現者である主からすれば、ナウシカやヴ王の姿勢は欠落への執着でしかない。 どちらの側につくのであれこの対比が味わい深い。
Replying to @shirochichi0707
そんな自身(と自身を含む人間全体の)愚かさに自覚的であったからこそ、墓所の主の欺瞞=全能の自分を崇める限り失敗はないとする宣教の裏の意図には敏感であり、また許し難いものがあったのであろう。人間の愚かさを切り捨てておいて何が救済だ?と。
元々の文脈から逸れた話になってしまうけど、(よくも悪くも)哲学者の狂気は段々減少してきてる(か、表に出ない)気がする。 最近だと、ウィトゲンシュタインあたりが狂気を抱えてるかもしれないけど、ニーチェ・ルソー・ディオゲネス等と比べれば、たとえ彼でも、そこまでという感じがしない。
ディオゲネスのことをプラトンは「狂ったソクラテス」と言ったとされるが、そもそも「狂っていないソクラテス」は可能なのだろうか。むしろディオゲネスを評するなら「狂気増し増しソクラテス」くらいが丁度良いのではないか(なんだか語呂もいい)。
3
余談だが、これの欲望版の見抜きはフロイトにある事が、『倫理とは何か』(63-64頁)で、ふれられている。 因みに、この本では、その後に、幸福に社会的要請を密輸入させてしまう事の方を、より重要な問題としている。こう言っては何だが、エピクロスなんて、モロにそうした傾向があると思う。
Replying to @manma2016
この辺りは、古代の人が鋭く見抜いてたと思う。 例えば、お金が出てく方だけでなく、入る方にも執着しない事を説いたセネカとか。 他には、(「断片」の63番で)「質素にも限度がある。その限度を無視する人は、過度のぜいたくのために誤つ人と同じような目にあう。」(99頁)と述べてるエピクロスかな。
1
ゲームボーイの方が私より先輩だったとは。
【今日は何の日?】 1989年4月21日は初代ゲームボーイが発売された日。 『テトリス』や『ポケモン』で新しい遊びのカタチを生み出し、ゲームのプレイスタイルを一変させた世界的ヒットの名ハード famitsu.com/news/202004/2119…
余談だがこの話も、先日のツイートと関連させる事が出来ると思う。 おそらく田辺は、nothingnessが同一性と区別出来なくなり、somethingが原初の所与となるにも「関わらず」、敢えて(ヌケヌケと)無の場所論を展開する事に我慢ならなかったのだろう。 それは、彼の『種の論理』(岩波文庫)の以下の文章
Replying to @manma2016
「敢えて」引き合いに出されたのが、重要ではないか。 無の場所は、根拠としては否定されるからこそ、元よりそこに於いて写されるものが(その矛盾も含めて)、問える。 因みに田辺は、無の場所を媒介にする事で、(「敢えて」の方はスッポかして)それが根拠として否定される事を徹底的に示したと思う。
1
からも汲み取れると思う。 肯定と否定とを包越する体系無の如き統一を客体的に思惟し、それを連続の静的統一基体とするも、かくの如きものは現実の動的連続と自己を媒介することなきものであるから、我々に対し通路の無い本体論的理念となる外はない。(中略)それは無の神秘主義的直観に依る有化と
1
相表裏する。(422-423頁) 田辺は、西田哲学(の無の場所)を批判する際には、「観念的」とか「神秘主義的」という言葉をよく使う。 こうした田辺の批判は、somethingはsomethingのままに肯定しつつも、無の場所において問いかけようとする西田哲学的な確信犯への我慢ならなさが、常にあると思う。
ここのお話にある様な事態を、ボードリヤールは、消費社会における芸術に見てとっている。 全面的な可視化により、元々の現実(出発点)の消滅が明らかになり、楽園追放以前の価値を秘めた様な解釈は成り立たなくなるという話(だから、この段階の芸術は、視覚的に消費されるだけで、何らの真実・幻想も
Replying to @EllerJun
反省によって出発点を(出発する自己を)自覚することができるようになった時、既に出発点と到達点が区別できないような仕方で自覚するしかなくなっている。原罪と絡めて言えば、罪を「現実に犯した奴」は既に問えなくなっており、ただ全ての容疑者(可能性を持つ者)が同時に被害者でもあるだけだ。
1
2
そこで私が、哲学的に探求したいのが、こうしたシミュレートが何なのかと言う事になる。 勿論私は、禁断の木の実(による原罪)がもたらした気付きが、こうしたズレ、更に言ってしまえば(あり得ない筈の)nothingnessとの合致だと思っている。 ついでに言えば、nothingnessが合致として考えられてしまう
1
1
1
事がきっかけとなって、自らの同一性とnothingnessが区別できなくなったとも考えている。 だから、(nothingnessにおいて映された)somethingが端的な所与として立ち返る原点になる訳だし、(ハイデガー哲学寄りの?)基体がベースに据えられる事になってしまうのだと思う。