むいしきには「ねがい」こそがよくあつされていると、その「ねがい」にこそひとはきがついていないとわたしはせんせいらからおそわったとき、そのひとのからだはそのひととつながってなみだになり、ぶってん?にはうれしなきのことがないのがふしぎなのだというたいだんをよんでいたわたしはにたような
もつかわれるようなものなんですが、これはあるえいがかんとくからきいたのですがあるものにたいしてまったくのこうていてきなえいぞうをみせたあとそれとまはんたいのひていてきなえいぞうをみせてゆさぶったあとにもういちどべつのえいぞうをみせるといったような、そのあとでがくせいたちがどんなは
さいみんというにはおおげさだし、だからトランス?なのだけどすでにおきていることにきがついていないだけなのだ、とわたしはおもう、だからつけくわえるというよりはおきているけどないことにされていることのはっけん、それも「ゆうどう」や「かいにゅう」ではあるのだけどすでにあったものをあつか
う(ないものをあわせる)わけではないからそのときのていこうというかはんぱつはすくないというかすこしてれたようなかお、げんきになったようなかおをひとはすることがおおい、それはなにかをおもいだすということとにているというかたぶんそのもので、おもいだされるそのものはそのひとのいきている
よるの「とうばん」とよばれているしごとにいくわたしはげんかんをでてかいだんをおりているところであぱーとのうらのほそいどうろをくるまのはしっていくおとがしていた。それはとらっくではないとわたしはおもっていた、おそらくはくろのたてながい、しょうめんからでたらいとはみちをてらしてそこは
ひかっているかがいとうがあったはずだけどここからだとおもいだせない。なにかのおんがくのしんどうがくるまからはでていた、
ちょうかくのひとにはちょうかくのひとの
ときょうみたほんにはかいてあった、ふくすうの「もだりてぃ」といったかそれは、ようはそのさいみんについてのはなしだ
でんわを
ちりょう(?)にはそのひとのよくなろうとするちからをつかう、ひきだすというよりはもうすでにはつどう、はつげんしていて、いるがちからだとみなされていないもの、きづかれていないもの、わたし、のはっきされるよちはそこでそのためにわたしはよくみるひつようがある、それをとくべつなことだとは
しんらいするというかそのものがもつなにかよくなろうとするちからをしんじられるかということがなににもましてだいじなことで、それはそのひとをどうみるかということでもあるけれどそのどうみるということがつたわっていくしかいにゅう?のおおもとにもなるというかやりとりをおしあげていくからげん
いっけん?ていねいではずしてもいない(めいせきな)のにてんかいしないとか、ようりょうよくすすんでいるのだけどそのようりょうよくということのなかにすすんでなさのあるおうとうのようなものがあって、そのときのたっちされていない、あつかわれていないぶぶん、ないことにされているぶぶんがあと
「ひきうけ」のまえにはこどものようなかんじょうをつうかするひつよう?がある、こどもということばはつごうよく、ときにはいいものとしてみじゅくな?ものとしてあつかわれるけれどこどもということばをつかわなければ「わたし」のつごう、それはいやだとかめんどうだとかやりたくないだとかりくつ?
にもこうみょうに?おおわれたそれ、それをうけいれたくないとだだをこねる、それ。
ああした、まいこむ、まきこまれたなかで「あんてい」をたもっていたい、みだされずにいたい、ということはかえってまきこまれることにつながるのだけど、そうしただだ、やじたばた、をできるならこうかてきに?
