私の長年の「見つからない本を探す」経験によると、見つからない時は、いったん捜索を諦めて借りたり買ったりすると、結構な確率で見つかる。これは、新たに入手することで、心理が整理されリラックスし、その結果、それまで見えなかったところも「見える」ようになるということでは、と思っている。
夜中に突然ですが、学部生の頃に、知ってはいたが単に「知っていただけ」の概念で、大人になって「ああ、なるほどね」としみじみわかる気がするものの一つは、「(ネオ・)コーポラティズム」です。これの「意味」がわかるには「政治」というものをわかる必要があったなあと思うのです。
まもなく拙稿が出ます。田村哲樹「脱人間中心的な民主主義と立憲主義はどのように可能か?」憲法理論研究会編『憲法理論叢書34 時代の転換と憲法学』敬文堂、2026年10月刊行予定です。
keibundo.com/0711_02-110.htm
ある再会した卒業生と話しをして改めて思ったこと。「各自の自由に」は一つの理想だけど、それだけだと各種の同調圧力によって「各自の自由に」の実現が難しい。「うちら」は自由でも、うちら「ではない」人たちには不自由になってしまう。文字通りの「各自」を保証するための枠組みが必要だろう。
ホームカミングデイも、実施するとやることが増えるものの、ここで再会する人も毎年何人かいて、貴重な機会となる。今日は大学院の法学系の同期や後輩で、今は各所属大学・学部でそれなりの地位を占めている何人かと会うことができた。
その前に、久しぶりにBOOWYのJUST A HEROを聞く。このアルバムが出たのは1986年3月1日だったらしい。多分その時点ではBOOWYのことはほとんど知らなかった(一度新聞記事で見た記憶)。が、高校入学後、5月か6月の文化祭で多くのバンドがBOOWYをやっていて、衝撃を受けたことをよく覚えている。
自分が文章を書く時に心がけており、また、院生等に指導する時にもしばしば言っていることだが、学術的な文章を書く時に、過度に「強い」表現や独自性が高過ぎる(と見なされ得る)表現は、できるだけ避けた方がよい。そのような表現を用いることで、言いたかったことが適切に伝わらない可能性もある。
回復したっぽいのでこのままでと思っていた私に、「医者に行くべき」と助してくださった方々に感謝です。この間、目のことで「すぐ医者にめ案件を経験しているのに、怠け者の心が邪魔をするんですよね。でも、何が起きても不思議ではない年齢になっているわけですからね。

