Pinned Tweet
ゲームプランナーにもタイプがあります。
「ゲームプランナーってどんな人?」と聞かれたら「人による」と答える人が多いと思いますが、それは仕事内容だけじゃなくてタイプにもよるんですよね。
私が現場で見てきた中でプランナーを分類すると、大きく3タイプに分かれます。
①トリガー:ゼロイチ(0→1)のアイデアマン
②ドロワー:イチジュー(1→10)の設計・分析屋
③ドライバー:ジューヒャク(10→100)の推進役
大きくはこの3つなんですが、それぞれに2つの気質があって得意領域がちょっと違います。
なので、厳密には6タイプに分かれます。
①トリガー
・アイデアマン:発想と世界観で勝負するクリエイター
・アイワナマン:熱量と共感で周囲を動かす情熱家
②ドロワー
・ストラクチャー:設計と計画で土台を支えるアーキテクト
・アナライザー:データと改善で品質を高める分析家
③ドライバー
・ブルドーザー:決断と推進力でチームを前に進めるリーダー
・サポーター:調整と傾聴でプロジェクトを着地させる調整役
「これ、自分だな」とか「あの人はこれだ」というものがありましたかね?
どのタイプが優れているわけではなく、いろんなタイプのプランナーがいてゲームは作られています。
自分がどのタイプに当てはまるのかを知ると、自分らしいゲーム開発が見えてきますし、「他のプランナーとの協力」の道筋も見えてきます。
▼3分でわかる「プランナータイプ診断」を作ったので、是非どうぞ!
gpc-planner-type-v3.netlify.…
ちょっと本腰入れてAIでゲーム開発するかと思って、ぶつかる壁のはなし。
AIとゲームエンジンを繋いで、「横スクロールの2Dアクションを作ってみましょう」と言われ、「一旦動くもの」を作ってみる。
「おお、ちゃんと動くがな!」と興奮。
「やっぱAIすげぇな〜」と思いながら、ひとまず最低限必要なものを入れていく。
アセットを入れてみたら、もっとそれっぽくなる。
「おおー、いいね、いいね!」
じゃあ「次はこんなの入れたい!」と、いろいろ注文をつけていく。
簡素だったゲームがどんどんリッチになっていく。
「あれ。これ、神ゲーできるんちゃうん?」とモチベMAXに。
さて、「ここから俺が思うおもろいもん入れていくでー」と乗り掛かると、急にブレーキがかかる。
「お願いしたのが、思ってたんと違う」
「いやいや、それはそうじゃなくて、こう」
と言った手戻りが増えていく。
謝るAIと憤る自分。
理解してくれないAIと指示に困る自分。
ゲームづくりというより、AIに対して心が折れてしまう。
こんな、経験ないでしょうか?
つまりこれは、「AIが出す平均の壁」にぶつかっているんです。
例えがゲーム開発でしたけど、イラスト作るにしても、文章作るにしても、60点ぐらいまでは優秀なのに、そこから先を求めると途端にバカに感じませんか?
これはまさに、平均点から先のクリエイティブが「あなたにしかわからないもの」だからです。
「ここはこうして欲しい」とか、
「こうじゃないと嫌」「これが面白い」とかは趣味趣向のレベルです。
だから、
「俺が求めてることが、お前にはわかると思ってたのに…」と残念になるんです。
とはいえ、これは対人でも同じです。
会議で「これいいですよね!」と盛り上がったのに、いざ出てきたら「あれ、思ってたんと違う」ということはいっぱいあります。
そのためには、
「俺たちが考えていること・作りたいものはこれである」
という共通認識を作るための時間が必要です。
しかも、結構ガッツリと。
時には壁打ち、
時にはケンカ、
時には企画書、
時には仕様書、
相手がAIでも話し合いとすり合わせは必要なんです。
これがなければ、「俺らが思う最高」の定義ができない。
すると、偶発的に生まれた奇跡を信じるしかないので、いつ完成するかわからない。
バイブコーディングは最初のハードルが低い分、平均点以降のクリエイティブに苦しみケースが多いです。
結局、最終的にはゲームデザインの理解やエンジニアリングの知識が必要になります。
なぜなら、開発するのはAIでも、ディレクションして決断を下すのは「あなた」だから。
AIでゲームが簡単に作れるようになるほど、「一人の偏愛」で作られたゲームが強くなると思っています。
ゲーム業界では、カウンターカルチャーが何度も起きてきました。
その時代の「当たり前」に対して、違う価値観をぶつける動きです。
90年代は、コンシューマ至上主義。高性能で大作であることが正義でした。
2000年代に入ると、大作についていけない人がゲームから離れていき、そこに性能ではなく「誰でも触れる」を掲げたDSやWiiが出てきた。
2010年代は、さらに手軽に遊べるスマホが、新しい「当たり前」になりました。
でも、その裏でソウルシリーズのような「骨太でガッツリ向き合う」ゲームが熱狂的に支持された。
つまり、カウンターだったものが、やがて体制(スタンダード)になる。
そして今、AIで速く、大量に、それっぽいゲームが作れるようになりました。
ただ、AIは使えば使うほど「多くの人が良いと思うもの」、つまり平均点に寄っていきます。
みんながいいと思った総和がAIなので。
だからこそ、次のカウンターは「誰に頼まれたわけでもないけど、自分はこれが好きなんだ」という偏愛だと思うんです。
自分が経験した「これは気持ちいい」「これが面白い」「これが楽しかった」という思い出は、AIには出せないですし、作れません。
あなたにしか出せない「これが面白い!」と言い切る力は、思い出の中にしかないんです。
この時代だからこそ、あなたの「楽しかった思い出」を大切にして下さい。
ゲーム開発は20〜30%ぐらいまでの開発が一番楽しくて、今だったらAIでなにか作る時もそう。
言い換えると、プロト版ができるまでが楽しくて、「一旦動くもの」が出来上がった時はテンション上がります。でも、そこからはしんどいが続くんです。
・動きはするけどゲームになってない
・ゲームとしての「面白さ」を評価できない
・アウトゲームとかオプション周りスカスカ
・言い出したらキリないから、これで終わりたい
みたいな感じですね。
要するに試作品な訳ですが、料理みたいに他の人にすぐ試すこともできない。
ここから先は、いわばチーム開発だろうが個人開発だろうが、孤独に開発・修正する期間が続きます。
つまり、ここから先の「製品」にしていく工程を乗り越えられるか、これがアマとプロの分水嶺なのかもしれません。
どんなタイミングでも諦めることはできる。
でも、諦めたらそこで試合終了。
とはいえ、時間的に諦めが肝心な時もある。
どこまでいっても最後は時間と精神力の勝負だと思います。
私のライフタイムベストの一本、『ロマンシング サ・ガ3』のフルリメイクが来年2月に出ます。
その前に、同じジーンさんが手がけて評判の高い『ロマサガ2』のリメイクを遊びました。
これは確かに名作でした。原作が名作なのは間違いありませんが、このリメイクは素晴らしい。おかげでこの1週間、楽しい時間を過ごせました。
・レオンとジェラールという物語の入り口 大きな悲劇から目的へ向かう滑走路として、完璧です。
・強制的な皇帝継承 同じ皇帝で進め続けられないこと自体が刺激になっています。
・皇帝が変わるたびの新鮮さ 陣形、パーティー編成、装備。代替わりのたびに遊び方が組み変わります。
・淡々としつつ密度のあるイベント 多くを語らないのに、キャラクターとシナリオに魅力がある。
・作業にならない戦闘 弱点が表示されるので、毎ターン適度に考えて判断することになります。
・やっぱり閃きは気持ちいい ピカーンの音と共に技を閃く瞬間は、脳汁製造機です。
・どの技で閃くかまで教えてくれる ノーヒントで閃いた時の刺激には劣りますが、ありがたい。
・七英雄という存在 敵側にヒーロー性を持たせる設定は、当時としては斬新でした。
結論としては、「RPGというジャンルでどこまでやれるのか」に挑んだ気概を十分に感じました。
特に、作られたシナリオの感動ではなく、ゲームルールの中で偶然生まれたドラマを楽しむ側面が強い。「自分だけの物語」を紡いでいる感覚が、このゲームの一番の魅力だと思います。
ロマサガ3は大好きな作品ですが、2よりもキャラクター性を強めた作品です。そこに「物語をわかりやすく再構築」し、冒険の動機を補完するイベントも追加するという方向性が加わると、「システムでドラマを作る」遊びから、「シナリオでドラマを見せる」遊びに寄っていくのではないか。
サガらしさは、さっぱりとしたやりとりにこそあると思っています。シナリオが重くなると、周回する腰も重くなる。
シナリオの強化が、そのまま面白さに繋がるのか。2が素晴らしかったぶん、そこを見届けたいと思います。
ゲームを最後まで遊び切れないのは、ゲームがつまらなくなったからではありません。
「エンタメを楽しむためにスイッチを入れる」という行為そのものが、失われているからです。
最近は、ゲームのライバルはゲームじゃなくて、漫画やアニメ・動画やSNSなど「可処分時間を使うエンタメ」すべてだと言われています。
これはその通りで、起動に手間がかかるコンシューマ機のゲームは荷が重く感じる。手軽に起動できるスマホで手っ取り早くエンタメにアクセスできるのは、便利で気軽で、一度体験すると手放せない習慣・中毒性があります。
この環境の中で「ドパガキ」というスラングが生まれ、憂慮や嘲笑の対象になっていますが、これは今の子どもに限った話ではありません。「ドパオジ」も十分います。
実際、電車やバスに乗ってスマホを見ていない人を探す方が難しい。
で、何を見ているのかというと、ゲームや漫画、動画、SNS。
子どもも大人も関係なく、「手軽にエンタメを受け取れる」ことそのものに、強烈な依存性があるわけです。
昔の話になってしまいますが、
・その時間にテレビをつけないと、見たい番組やドラマが見られない
・ゲームを遊ぶには、ソフトとハードを買って、さらにまとまった時間が必要
・映画を観るには、映画館に行くかTSUTAYAでレンタルするしかない
・音楽を聴くには、CDを買うかレンタルするしかない
つまり、エンタメを受け取るために「時間と手間」を捻出する必要があった。
でも、その「時間と手間」のおかげで、エンタメに向き合う姿勢ができた。まさにスイッチをガチャンと入れられたわけです。
向き合う姿勢がないままゲームを遊んでも、得られるものは薄い。
数十秒で「めちゃくちゃ面白い」とまではいかなくても「ちょっと面白い」を浴び続けられるほうが勝って、「数時間遊ばないと面白さがわからない」ゲームは負けてしまう。
でも、「しっかり遊んで得られる充足感」を求めている人も、確実にいます。
そこで。
今、ゲーム業界は大きく二分していると思います。
「ドーパミン向けのカジュアルゲーム」と「ガッツリ遊べるコア向けゲーム」。
2010年代は、ちょうどこの間にある「割とちゃんと遊んで達成感があるゲーム」がスマホで無双していました。
パズドラもモンストも、結構ちゃんとプレイしないといけない。
でも、いまこういうゲームを作っても、かなりしんどいと思います。お手軽と謳う割には、ちゃんと向き合わないといけないから。
結果、「放置していたら勝手に成長して、課金した分だけ強くなる」方向に向かっていますよね。ハイパーカジュアル・ハイブリッドカジュアルも強い。
一方で、フロムやカプコン、アトラスが手がける、深い体験ができるコア向けのゲームは残っています。
これまで培ってきた技術や強みを発揮して「この会社が作るものでないと体験できない」という価値は、引き続き評価されている。
まさに「ちゃんとスイッチを入れて向き合うゲーム」は、しっかりと存在感を示しているわけです。
真ん中が消えて、両端だけが残った。
AIも駆使して高速に開発し、PDCAを回すカジュアルゲームか。
これまでのゲーム開発の技術や強みを注ぎ込むコアゲームか。
あなたが選ぶゲームはどちらですか?
そして、あなたが作りたいゲームはどちらですか?
あなたがWebや書籍で見つけた企画書のフォーマット、そのまま使っても、たぶん伝わりません。
「ゲーム 企画書」で検索すると、noteの記事、転職支援サイト、専門学校のページと、いろいろ出てきます。そこで出てくるのが「どれを参考にすればいいのか」という問題です。
つい先日も、大学生の方から相談がありました。夏のインターンでゲーム企画をプレゼンしたものの、悔しい思いをしたと。詳しく聞くと、「最後まで興味を持ってもらえず、伝わりきらなかった」そうです。
これは、よくわかります。
ただ、いい経験をしたと思います。企業に企画書を応募しても、どこが良くてどこが悪かったかは教えてもらえません。「採用されなかった」という事実が届くだけです。目の前で反応をもらえた経験は、それだけで貴重です。
では、なぜ伝わらなかったのか。
これまで色々な企画書を見てきましたが、共通しているのは「魅力を引き出せていない」ことに尽きます。
ゲームジャンルや「このゲームでやりたいこと」くらいは、聞いている側にも伝わっています。問題は、「なぜこのゲームを作る必要があるのか」「何が面白いのか」が、言葉や絵になっていないことです。
コンセプトと言いながらコンセプトになっていない。
コア体験と言いながらコア体験になっていない。
「言いたいこと」と「伝えるべきこと」がチグハグだと、どれだけきれいにフォーマットに乗っていても、納得は得られません。
フォーマットが悪いわけではありません。 フォーマットは、魅力を「読みやすく」するためのものです。ただ、魅力そのものを「生み出して」はくれません。
検索で見つかるのは、書き方までです。
「このゲームの魅力ってなんだろう?」と自分自身に尋ねてみてください。
これは激しく同意です。
テレビは当然家庭に1台あるという環境から、ファミコンという形で家庭にコンピュータが入ってきて、スーファミ、プレステ…とゲーム機の進化を目の当たりにしつつも、
ポケベル→PHS→ケータイ→ガラケーという通信機器の進化も同時に食らう。
進化を加速させたのはインターネット。
フルFlashで作られたWebサイトに驚き、
やがてWeb1.0からWeb2.0になり、mixiに新時代を感じた。
そして、コンピュータの進化と通信機器が合流するスマホで直接には離れていたゲームと通信機器が完全に手を組む。
ゲームはゲーム、ケータイはケータイだったはずなのに、今やほぼ全員が手元にゲーム機とカメラを持っている。
こんな時代になるとは誰も思わなかった。
我々おじさんは、
新しいFFやDQが発売すると分かるや否や、「お前も買う?」と盛り上がり、
ケータイの新機種が発売されると分かるや否や、「新しいパカパカ買う?」と確認し合い、
iPhoneのプレゼンに興奮し、
いまやAIの新モデルの発表で「今度は何ができるんや?」とワクワクしている。
これは、思春期からずっとデジタルの進化と共に生きてきたから。
仕事でもプライベートでも、いつでも。
だから、AIに未来も感じるし、怖さも感じる。
デジタルに感情を乗せる世代だから。
おじさんのAIゴリ押しは、経験の産物なんだけどね。
今の40代は、ゲーム機という形でデジタル機器が家庭に入り込んできた最初の世代で、その後もデジタル技術の発展とともに生きてきた。
技術は進歩し続けること。一度変化が始まれば、それは急激で不可逆的なものになること。そして、その波に乗り遅れれば、仕事でも勉強でもエンタメでも取り残され、社会の第一線から脱落しかねないこと。それを何度も身をもって思い知らされてきた。
そうした経験の積み重ねがあるからこそ、生成AIの波に背を向けることの愚かさを痛感してるわけよ。
だから、聞きかじりの倫理を振りかざしてそれを否定する若い子を見ても、「未熟者だなぁ」としか思わんわけね。
AIを使ってゲームを作るとはどういうことか。
AIを触っていて思うのは、結局これは「仕事を作って、仕事の指示を与えるもの」だということです。
ゲーム開発で言えば、完全にプロデューサーやディレクターの仕事。少なくともチームリーダーの仕事ができないと、使いこなすのは難しいと感じています。
①「どういう目的なのか」
どうなればゴールで、そこに至るまでにどういうルートを通るのか。まさにプロジェクトの核でプロデューサーの仕事です。
ここで詰んでいると、この先何を作っても詰む確率が上がります。
②「どういう企画・プロダクトであるべきか」 マーケットインなのか、プロダクトアウトなのか。何が強みで、何が価値なのか。
企画書にこれが書かれていないと、開発でブレます。ディレクターの手腕が問われる。
③「ゲームデザインや仕様、開発手順はどうあるべきか」
「こんなん良いかも」「入れたら面白そう」というアイデアを採用するか、捨てるか。本当に必要な仕様なのか、ただ入れたいだけなのか。
手順がチグハグだと、いくらAIが作ったものでも当然バグります。
④「これでいいのか」を判断する審美眼 作ったものを触って「これじゃダメだ」「これならイケる」と判断する力。これは、どれだけ遊んできたか、作ってきたかでしか養われません。
つまり、AIでゲームを作るということは、プロデューサー、ディレクター、プランナー、そして目利き・・・本来は別々の人がやっている仕事を、全部ひとりで決めるということなんです。
しかもAIは、こちらの判断が甘くても、たいてい肯定してくれます。
AIが「いいですね。これでいきましょう」と言ったことに、「NO!」と言えるか。
あなたが1日で作れたそのゲーム、たぶん「回って」いません。
AI×ゲーム開発のニュースをよく見かけるようになりました。私自身、ゲーム開発でAIはどんどん駆使すればいいと思っています。
ただ、「AIで作ったゲーム」として流れてくるものを見ると、何かのコピーでしかないものが多いんですよね。
「ソウルライク、1日で作れた」
「Only Upを数行で作った」
最新モデルの検証としては分かります。でも、これはゲームを作ったことにはなりません。
実際、インゲームの部分はAIで割とささっと作れます。「それっぽい」し、「ちゃんと動く」ので、「ゲームっぽい」んです。
ただ、遊んでみると「ゲームになっていない」ことがわかります。
ゲームは大きくインゲームとアウトゲームに分かれています。アクションRPGなら、フィールドを歩いたり戦ったりするのがインゲーム。装備やスキルの設定、クエストの管理などがアウトゲームです。
「ゲームになっていない」ものは、インゲームに向かわせる強い誘引が、アウトゲーム側に設計されていません。
だから、遊んでいてこうなります。
「何のために敵を倒すの?」
「うん、だから何?3回やったら飽きるんだけど」
そして、肝心のインゲームのほうも、動かしていてあまり気持ちよくない。
「動きはする」けれど、「気持ちよくない」。
ここが一番の差だと思っています。
「どうすれば気持ちよくなるのか」
「どうすればもっと戦いたくなるのか」
これを設計するのが、ゲームづくりです。
そして面白いのは、断片を作るコストが下がるほど、それを繋いで回す仕事の価値は上がります。
プランナーの仕事は、まだまだなくなりません。
あなたの企画書、最初の1センテンスにコア体験を置いていますか。
コアをしっかり書けていると、現場がブレない。
「じゃあ、こうやったらもっとオモロくなるやん!」と建設的な会話が生まれる。
一方、コアが書けていないと、開発中に何度も「結局、何をするゲームなの?」「どうなったらいいの?」というスタッフの声が飛び交い、現場が膠着してしまう。
つまるところ、現場が信じられるかどうか。
根源的な面白さを最初に明示するだけで、後の判断は一貫しやすくなります。モンスターハンターなら「狩り」、ドラゴンクエストなら「冒険」というように。
あなたのゲーム企画書、プレイ時間の設定できていますか?
企画で最初に聞かれるのは、たいてい「どれぐらいの時間でクリアできるゲームなのか?」です。
これは「ゲームの規模」と「ゲームの奥深さ」の両方を測るための質問で、想定プレイ時間が決まっていないと、機能や仕様の過不足そのものが判断できません。
そしてもう一つ、「どの時期が一番面白いのか」もイメージで示す必要があります。
ここで大事な前提があります。どんなゲームでも、最初から最後までずっと面白いわけではありません。 ダレる時期は必ずあります。
それでもプレイヤーが続けられるのは、「最高に楽しい体験」が先にあると分かっているか、もう味わった余韻が残っているからです。
だから、その時期をどこに置くかを具体的に決めておく。
ここが決まると、そこまでに何を我慢させ、そこから先に何を用意するかが、全部決まります。 逆に決まっていないと、どの仕様も「あったほうがいい」で横並びになります。優劣がつけられないんです。
ゲーム企画書で本当に設計すべきなのは、面白さの量ではありません。面白さをどこに置くかです。
ウェビナーまであと1時間になりました。まだお席残りございます。
20:00から、ゲーム企画書3本を実際に添削します。
添削って、人のものを見るのが一番勉強になります。
自分の企画書だと、思い入れが邪魔をして冷静に読めません。
「へーこんな企画書あるんだ」ぐらいの気持ちで見るだけでも、何かヒントやコツを掴めると思います。
本日はTGSビジネスデー初日でゲーム業界が盛り上がっておりますが、1時間だけお時間をください。
決して無駄にはしません。お待ちしております。
school.gpc.games/seminars/20…
私には子どもがいませんが、
そのかわり、ゲームを作ったり、スクールを作ったりする理由がわかった気がします。
そうか、
人の人生に何度も関われることは本当に楽しいことなんですね。
朋友跟我说,人的一生一定要生个孩子
我问为什么?
他说,人这一辈子,能体验到的快乐是极其有限的。
5岁,你玩的是游戏机,画面糙得没法看,但你抱着它能玩一整个暑假。
10岁,你泡街机厅,一个币盯一下午,老板赶都赶不走。
15岁,你钻进网吧通宵,第二天顶着黑眼圈上学,心里美得很。
18岁,你去滑冰场,摔得屁股生疼,就为了拉旁边那个人的手。
22岁,你拿到第一份工作,工资不多,但你觉得这个世界开始为你发门票了。
28岁,你买了房,贷款买的。签字那天手是抖的,晚上站在毛坯房里,觉得天下都是你的。
从那一年起,日子一年比一年难。三十多岁,责任一年比一年重。收入越来越多,但快乐越来越少。
你买了当年梦寐以求的最顶配的电脑,把以前喜欢玩的游戏全玩了一遍。
却体会不到曾经的乐趣。
你换了曾经想买的车
却开心不到三天。
你有了很多曾经梦寐以求的东西,却再也感受不到曾经的快乐。
直到你有了一个孩子。
你不用做什么,只是看着他的成长。
他快乐,你会感同身受,
你儿时的那些快乐跟着他全部都回来了,
孩子会带着你重新的活一次
这份快乐,远远超过你自己余下人生快乐的总和。
我不知道他说的对不对,陷入了沉思。
「こういう独創性みたいなものを失った業界というのはやっぱりゆっくりと死んでいくだけ」。
重い言葉ですね。
メーカーに対しても、
クリエイターに対しても、
生成AIに対しても、
プレイヤーに対しても、
関わるすべてに投げかけているような。
ただ、そこまで悲観することはないと思っています。
ゲームに限らず、エンタメ自体が「死」と「再生」をくりかえすものです。
何度も死ぬ。
その度に「新しい何か」「反抗的な何か」が生まれ、再生するのがエンタメです。
自分が熱狂した時のゲームではないかもしれない。
自分が望んだ通りのゲームではないかもしれない。
けれど、我々が娯楽を愛する限り、
人は必ず「新しいもの」や「独創性あるもの」を求めます。
桜井政博氏「独創性みたいなものを失った業界というのはゆっくりと死んでいくだけ」──「ゲームデザイナーズ大賞」コメント全文掲載
news.denfaminicogamer.jp/new…
「新しさや独創性、その作品にしかないものに目を向けていただければ幸いです」と締めくくる。桜井氏が創設した同大賞は今年をもって終了
大手メーカーあるあるですね。
どうやって会社の重役(経営層)になったかというキャリアパス次第なんですが、例えば2010年代の課金型ソシャゲやオンゲーで重役になった人は、根本的にコンシューマー開発の経験が薄いので、コンシューマータイトルにおける「良し/悪し」の判断軸自体がありません。
ただ、会社にもたらした貢献は評価せざるを得ないので、結果重役のポストに座っている。
すると、「これが面白いから」というゲームの中身を語るより、「市場的にこうだから」という数字で語れる人の方が「ビジネスしてる感」が出ますし、理解・承認しやすいんです。
言うなれば、
「遊ぼうが遊ばまいが、作る時点で答えは決まっている」
という考え方です。
当然、テストプレイはおろか、それぞれの開発状況もほとんど知りません。仮に口出しするならば「自分が知っている話」しかできません。
現場からすると「何年前の話してんねん」と思いながらも、鶴の一声なのでやらざるを得ない。
これが全てではないですが、こうやって現場と溝が生まれてしまっているわけなんです。
『鉄拳』原田勝弘氏は、日本の大手ゲーム開発会社の経営層について、自社開発ゲームを「プロトタイプも完成版も遊ばない」との認識を示した。
P/Lや損益分岐点を話し合う会議には参加する一方、実際のゲームビルドを遊ぶことも、それについてフィードバックすることもないという。
さらに日本ゲーム業界の上層部へ話を広げ、「自社ゲームを遊んでいる人はいない」とまで強く主張。SNKグループは明確に「例外」としている。
詳細:gamestalk.net/harada-japan-g…
個人的にはコンシューマも黎明期からずっとビジネスをしてたと思っています。
ずっとゲーム開発・販売というビジネスに対して、「俺なら」「一発当ててやる」「うちが稼ぐ」と鎬を削ってきた歴史。
なので、コンシューマ時代をアートの神話とするのは、いささか美化しすぎかと思っています。
名作ゲームの中にアート性や作家性があったのは間違いないですが、玉石混交なのは昔も同じ。
2000年代にゲーム離れが起きたのはソシャゲと無関係ですし、ずっとゲームというエンタメの新陳代謝が繰り返されている。
昔は開発する人間が少なかったので、ヒットした時の配当も大きかった。
今は開発人数が多くなったのに、日本だけを市場にしていたら、たとえ100万本売ってもインセンティブなんてほとんど出ない。
それを「夢がない」と思うか、それでも「届けたい」と思うか。
AIでゲームを作るの、大いに良いと思います。
それで稼げるなら、羨ましいの前に、純粋にすごいと思います。
だから作ってみてほしいですね。
AIでゲーム作って稼ごう、みたいな人が増えてヤダな、みたいに思ってる人が増えた話。
個人的にはガラケーの時にソシャゲブームが来て、ウェブ系の人がなだれ込んできて、コンシューマゲームにはなかったKPIみたいな指標がもてはやされ、ゲームが稼ぐ系に侵食された時も、あいつらがゲームを壊した、みたいな声が多かったよ。
世の中資本主義なわけで、逆にいうとコンシューマゲームがアートすぎたみたいにも思う。稼げすぎてお金が二の次になっていた。それがゲームに夢があった所以でもあると思うけど。
なのでAIでゲームを作って稼ごう、というのも別にあっても不思議ではない。
他人がどうあれ、自分がゲームに夢を持って作ってるならその道で行けばいいし、他は関係ない。
なんなら大手のゲーム会社だって収益がなければ続かないわけで、ゲーム制作においてアートと収益は必要な2つの車輪であり、そのいずれかだけ重視しててもバランスが悪い。
インディだってめっちゃカメレオンみたいな大ヒットがあれば、みんな自分もと羨む。
傍ら、ヒットなんていいから自分の世界が作りたいとうそぶくが、売れた方が現実の暮らしが楽になるし、売れるのを望んでいることは違いないのに、売れてない状況を肯定するために収益なんて二の次という。
そういった自己矛盾を孕みながらゲームはアートとビジネスの間に存在している。
アートから入った方と、ビジネスから入った方、どっちが正解かと問えば、それは世間的には売れた方になるんだろうなあと思う。
それでいうなら、マイクラやカメレオンはアートだけどなかなか出ない一発だし、ゲームで継続的に稼ぐにはトレンドやライトユーザー狙いの売れ線、ファンがすでにいるテーブルゲームだったりと、役割として混ざってるよなあと思う。
あなたのゲーム企画書の「コンセプト」、間違ってませんか?
企画書を添削していて、ほぼ毎回指摘する箇所があります。
それは「コンセプト」のスライドです。
そこに書かれているものの大半は、コンセプトではありません。
何が書かれているかというと、だいたい次の4つのどれかです。
①ゲームジャンル
「王道ファンタジーRPG」「本格ローグライクアクション」。
→これはジャンルであって、面白さの説明ではありません。
②ゲーム概要
「3Dアクション。1プレイ20分。最大4人でのオンライン協力プレイ」。
→必要な情報ですが、これだけ読んでも遊びたくはなりません。
③ゲームサイクル
「配達 → 報酬 → 強化 → 行動範囲の拡大」。
→これは「何をどういう順で繰り返すか」の手順でしかない。
④世界観の説明
「魔力が枯渇し、人々が────」。
→これは舞台設定です。舞台が面白ければゲームも面白いとは限りません。
この4つには共通点があります。
それは、どれも「このゲームは、何が面白いのか」を一言も言っていないということです。すべてゲームの周辺情報なんです。
コンセプトとは、「そのゲームの価値」を示す一文です。
たとえば、配達をテーマにしたゲームの企画書がありました。
③ゲームサイクル「配達→報酬→強化→拡大」がコンセプトとして書かれていたケースです。
内容を聞いていくと、この企画の本当の面白さは、目的地に最短で向かうことではなく、寄り道そのものにありました。
そこでコンセプトを言い直すと、こうなります。
”配達は、遠回りするほど面白い”
これがあるだけで読み手の頭にゲームが立ち上がります。
しかも、この一文が決まると他の判断が全部やりやすくなります。 寄り道を促す仕組みが必要、最短ルートで効率を競う要素は要らない。即断できるんです。
つまりコンセプトは、読み手のためだけにあるのではありません。
「作り手が迷ったときに立ち返る基準」です。
だから曖昧なままだと、開発中ずっと判断がブレ続けます。
確認の方法は簡単です。自分のコンセプトを読んで、「で、何が面白いの?」と聞かれたときに、そこに答えが書いてあるか。
ジャンル名、スペック、手順、舞台設定。このどれかで答えてしまったら、それはまだコンセプトではありません。
9/17(木)20:00、
実際の企画書3本を添削します。1本目が、まさにこのケースです。
school.gpc.games/seminars/20…
おっしゃるとおり、ハイパーカジュアルは簡単じゃないですね。
まずはリリースまでを急いで、超高回転で修正・追加をしながら運営していくという、かなり泥臭いものです。
多くのハイパーカジュアルが「動きはするけど、気持ち良くない」というものが多く、爽快さを実現するなら結局時間がかかります。
「このゲームは勝負できるか?」を見定めるためにも、それなりに時間と労力をかけます。
今はさらに進化してハイブリッドカジュアルも生まれ、ドリームはありますが凄まじいレッドオーシャンです。
VoodooのMob Controlがどんな経緯を経て今に至るかを知ると、どれだけ大変かを思い知りますので、是非調べてみてください。
ゲームの企画書を添削するとき、必ず「いいところ」から探します。
これ、優しさでやっているわけじゃなくて、そうしないと添削できないんです。
添削というのは、悪いところを潰す作業だと思われがちです。でも実際にやっていることは、削って、繋いで、残すものを決める編集作業です。
そして「何を削るか」は、「何を残すか」が決まらないと決められません。
だから最初に、この企画の一番いい部分を見つけます。企画の軸を決めるんです。そこが決まると、他の要素を「その良さを支えているか?」「邪魔しているか?」で判断できるようになる。
逆に、良いところを見つけないまま添削を始めると、ただの粗探しになります。
「なんかつまんない」「よくわからん」
これは誰でもできます。
仮に指摘は正しくても、何も残らない企画書ができあがる。一番やってはいけない添削です。
私自身、若い頃に企画書を全否定されたことが何度もあります。
正直、納得いきませんでした。あのとき本当に欲しかったのは、「ここはいいね」という一言だったと思います。
だから今は、どんな企画書でも必ず3つ、いいところを探してから始めます。
探せば、必ずあります。ゲームを作りたいと思って、その人が向き合って書いたものですから。
9/17(木)20:00、企画書3本を実際に添削します。もちろん、まずは企画を褒めるところから。
school.gpc.games/seminars/20…












