市井の人がストーカーをやればストーカー規制法に引っかかって拘束されるが、公安警察によるアクティヴィストに対する盗撮・尾行などのストーカー行為は免罪されている。ストーカーで飯を食べる連中が公費で雇われているのだ。この非対称性はきちんと問われるべきである。
最近起きているフランスでの民衆蜂起に関しては日本国内ではやれ暴動だから危険だとか現地では略奪・放火・破壊が起きているからよろしくないとかいう論調で報道されており、警察権力による暴力はきちんととりあげられておらず、SNSではあたかもフランスの支配層と自分が同一化したかのような蜂起に対する罵倒や中傷が目立つ。権力による暴力は正当化して、民衆の抵抗の暴力を否定する支配階級の思想の浸透を改めて強く感じる。ブルジョアジャーナリズムが権力側の思想を体現するのは本質的だが、問題は運動圏においても権力の暴力とどう闘うかの問題や抑圧に対する抵抗の観点を棚上げにして蜂起につながる民衆の自然発生性を抑え込む傾向があることである。すなわち運動の現場で主催者が参加者を統制して警察権力にとって無害な行動に運動を切り縮めたり、「過激派」排除を打ち出すことである。
近年は人間中心主義を批判する文脈で動物の権利やヴィーガニズムが語られているが、動物を革命の主体として措定し、動物と一緒に運動を展開するという発想は少なくとも日本では見聞きしない。私としては動物と一緒にデモを歩くことをやってみたい。仮にゾウが10頭、あるいは牛が30頭デモを歩けば道路を完全に占拠出来るのではないのか。四条河原町の通りをゾウ10頭と共にデモ行進して、交差点でゾウに餌と水を与えて交差点を占拠し、解放区にしたいところである。現実的には個人でゾウや牛を飼うことの困難さがネックだが。
ベ平連やそれに関与した鶴見俊輔や小田実はやたらと称揚されていると感じるが、実に胡散臭く感じる。やたらと褒められるということは結局既存の体制を何ら脅かさない権力側からすれば無害な運動・言説だったということではないのか。ちなみに私は小熊英二などという者がやたらとベ平連を称揚しているのもあってベ平連関係の文献も鶴見俊輔や小田実の書物もまったく読む気がしない。
私はカメちゃんと一緒に運動現場によく行く。ぬいぐるみをデモやスタンディングに持ち込む人はよくいるし、人によって持ち込む動機もさまざまだろうが、私にとってはカメちゃんは断じてデモグッズの類ではなく、傍らで力を与えてくれる存在であり、討論の相手でもあり、何より運動仲間・変革の主体でもある。
今晩は近所の定食屋で夕食をとる。店の人に自分がこの3日間立て続けにデモに参加した話をすると、お疲れ様でしたとケーキをご馳走してくれた。今まで政治の話など店の人にしたことなかったが、デモの話もしてみるものである。
3日連続でデモに参加したせいか次はこんなデモやりたいというアイデアが次々に浮かぶ。やってみたいのは警察解体・刑罰廃止を訴えるデモ。日本では狭山差別裁判に抗する狭山闘争や冤罪事件の被害者を支援する運動、死刑廃止の運動、あるいは代用監獄の廃止を求める運動はあるが、警察権力と刑罰の総体の解体・廃絶を要求する運動は管見の限り存在しない。しかし、現実に警察権力によって行われている違法な取り調べ・証拠の捏造・虐待・監視と尾行・デモに対する弾圧・代用監獄、司法による長期拘留、刑事裁判での極端な有罪率の高さなどを踏まえれば、警察権力並びに司法の人民との非和解性は明らか。フランスでの最近の蜂起を見ても警察権力による人民に対する暴力は蜂起が起きれば必ず発動される。そもそも我々の社会が警察によらなければ秩序が保たれず市民の安全が守れない、市井の犯罪者には厳罰が必要などといった思い込み自体が支配の道具であり、国家権力による暴力を免罪するものである。警察解体・刑罰廃止を訴えるデモをやりたい
定食屋や居酒屋に行くと、いろいろな人に会う。先日ちょくちょく通っている定食屋に行くと、隣で自民党員だという人が京都党の人と話していた。自民党員の人曰く、宗教団体は選挙の時に一生懸命やってくれるから有難い、統一協会はインチキやけど、選挙の時は力になってくれた、という。









