🌳タイで出家修行30年 💻Zoomとリアルで法話、瞑想指導、個人面談 📚著書『苦しまなくて、いいんだよ。』『自由に生きる』『脳と瞑想』など10数冊 📺NHK「こころの時代」「宗教の時間」他出演 📝自他の抜苦与楽に資するポストを紡ぎます 🌍『よき縁ネット』にて瞑想会の予定や著作、メルマガ登録など👇

Joined October 2016
■10/18日(日)19〜22時 「自他の抜苦与楽を『ダンマパダ』から学ぶ会」 第14章「ブッダの章(Buddha vagga)」179~196偈 (オンライン ※アーカイブ配信あり) →yokiennet.hatenablog.com/ent… 「ブッダ(目覚めた人)」とはどのような存在か。目覚めた人は何を教えるのか。真の帰依とは。覚者に出会い、敬うことの価値とは。 今回は、こうした問いに対しての核心を、巧みな比喩を用いて説かれた偈文が集められた「ブッダの章」を学び、瞑想の実践をします。
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プラユキ師の長年のライフワークであるダンマパダの会、10月開催です! 自他の抜苦与楽を『ダンマパダ』から学ぶ会 ~『第14章 ブッダ』を理解する~ 10月18日(日)19:00~ 「ブッダ」とはどんな存在で、 私たちは、なぜブッダの教えに従うのか… 師の解説が楽しみです! yokiennet.hatenablog.com/ent…
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🍀プラユキ瞑想会・面談会の予定 ■10/18(日)自他の抜苦与楽を『ダンマパダ』から学ぶ会(オンライン ※アーカイブ配信あり) ◆10/21(水)個人面談会(オンライン) ◆10/25(日)個人面談会(オンライン) ◎11/19(木)~24(火)タイ瞑想寺リトリート タイ yokiennet.hatenablog.com/
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◾️10/10(土)19〜22時 法話と瞑想の集い「心を、味方につける〜アーナパーナ・サティ③後編 / 心への気づき」 (オンライン ※アーカイブ配信あり) 前回は、「心(チッタ/ citta)への気づき」の入口――貪瞋痴などあらゆる心の状態にあるがままに気づき、観察することにたっぷりと時間を使いました。 今回はその続きで、第10〜12段階の講義と実践を行います。ここでは、心を観察するだけではなく、心を明るく、安定させ、そして自由にしていきます。 冒頭で、これまでの9段階の概要をざっくり説明し、瞑想を通じておさらいをしますので、このシリーズはじめての方も、どうぞ安心してご参加ください。kokuchpro.com/event/b8be7e52…
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集中瞑想で行き着く「無」の境地とは、一般に、対象への集中が強まることで、「私」という感覚や身体感覚が薄れたり、主体と対象の区別がつかなくなったりすることを言う。それに対して、気づき・観察系の瞑想による無我の洞察は、私が感じられなくなったりすることや対象になりきる、あるいは、宇宙との一体化やワンネス体験をすることとは異なる。 たとえば、手動瞑想では、「私」という概念を絡ませずに、ただ一動作一動作、丁寧に手に気づくことを繰り返す。それによって、身体だけでなく、心の動きや、その連鎖や増幅のプロセスも観えてくるようになる。それを観察しているうちに、「私」や「私のもの」といった概念が構築され、「私の物語」が成立するさまが観えてくる。 つまり、手動瞑想など気づき・観察系の瞑想は、「私」を消すことが主眼ではなく、ただ気づき、観察することで、自ずと「私」という自己感覚なるものが、身体感覚、記憶、意思、概念などの条件によって成立しているという縁起を看破する。 ということで、集中力を研ぎ澄ますことによって自己感覚が消える「無」の体験と、観察によって「私(自己)」の構築プロセスを洞察し、「無我」を看破する体験は、「似て非なるもの」ということだ。 なお、仏教的な文脈だと、こうした微細な心を明晰に観察し、無我などの智慧を得るには、ある程度の集中力(定力)が必要なことも確かである。それゆえ、そうした土台を培うにあたって、集中瞑想もそれなりに有用であるとみなされる。
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8月に実施した「自他の抜苦与楽を『ダンマパダ』から学ぶ会」のレポートを、しのさんがブログ「瞑想以前。」にて連載中! →meisousinosan.hatenablog.com… ◾️第13章「世の中の章(Loka vagga)」の解説。 ・ブッダの言う「Loka(世界・世の中)」とは? ・ブッダは「世界を見るな」とは言わず、「よく見よ」と促した(=仏教は、世界を拒絶する教えではなく、世界を正しく見る教えである)。 ・ブッダが問題とみなしたのは、美や快、喜びそれ自体ではなく、執着→苦である。 など、「世界」とどう向き合うか、関わるかについて、ブッダが様々な比喩を駆使して詩的に語っています。 ・後半の質疑応答では、様々な日常生活のシーンに応じた、プラユキ特選「シーン別ダンマ活用法」オススメ7選についても言及しています。 しのさん、レポート執筆ありがとうございます!
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あなたが誰かに対して、好意、嫌悪、怒り、嫉妬、慈しみなど、どんな〈感じ〉を抱いたとしても、その〈感じ〉が生じている場所は、「今ここ」の自分の心身である。それは、相手の言動や態度のみならず、自身の記憶、価値観、期待、身体状態など、さまざまな条件が相まって生じてくる。 興味深いのは、私たちが他人に向けるものが、同時に自分自身にも作用を及ぼしてくるという事実だ。 誰かに「幸せでありますように」「苦しみがなくなりますように」と願えば、その慈しみを最初に享受するのは自分の心である。 逆に、誰かを罵る言葉を口にすれば、その言葉を最も近くで聞いているのも自分自身である。 実際、慈愛や慈悲を育てる瞑想には、実践する本人の肯定的感情や思いやりを育てる効果も報告されている。 つまり私たちは、他者に向けた心によって、同時に自分自身の心も育てているのだ。 それゆえ、自分の中に生じるポジティブな感情だけでなく、怒り、不安、嫉妬、悲しみさえも否定せず、「今、こういう感情が生じている」と受容できるようになることには、大きな意味がある。 自身に生じる多様な感情を受け容れる器が広がれば広がるほど、他者のさまざまな感情や、この世界の思い通りにならなさを、「敵」や「苦しみの種」にしてしまうことなく、ありのままに受け止める力が育っていくからだ。
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先のポストにて、拙著「『気づきの瞑想』を生きる」の托鉢シーンの記述の一部が、釈徹宗先生のご著書にて引用されている旨を画像とともに紹介したが、実を言うと、本書の中でこの托鉢シーンにはかなりの紙幅を割いている。 仏教における托鉢の意義の理解の一助に、また、「歩行瞑想」や「日常生活のなかでのマインドフルネス」の参考になるかもと思いましたので、「『気づきの瞑想』を生きる」の托鉢シーンの全文を添付しておきますね。
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ああ、プラユキ師の托鉢の記述…! この「あるがままの気づき」に満ちた一歩一歩、 まさにタイの托鉢にて体験すると、一生忘れないような気づきの高まりを感じました。 歩くことは、生きること! どこまでも歩いていけそうな感覚でした。
托鉢といえば、釈徹宗先生@shakutesshuのご著書「キッパリ生きる!仏教生活 -すこやかであるための仏教メソッド」に、拙著「「気づきの瞑想』を生きる」の托鉢シーンの記述が引用され、今ここをありのままに観じる仏教メソッドの一つとして紹介されていました。 ご参考までに、当該文章と、托鉢シーン入りの毎日新聞掲載の記事、添付しておきますね。 釈先生、どうもありがとうございます!
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タイの瞑想寺レポート⑦ 「気づきの瞑想とは何か?」 タイ僧侶さまから直々に、法話を頂きます。 体と心の動きに、いかに気づき 気づくとどうなるか 囚われないのない軽やかさを、存在感で教えてくれます プラユキ師の 『タイの瞑想寺リトリート11/19~24』募集中です! yokiennet.hatenablog.com/ent…
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托鉢といえば、釈徹宗先生@shakutesshuのご著書「キッパリ生きる!仏教生活 -すこやかであるための仏教メソッド」に、拙著「「気づきの瞑想』を生きる」の托鉢シーンの記述が引用され、今ここをありのままに観じる仏教メソッドの一つとして紹介されていました。 ご参考までに、当該文章と、托鉢シーン入りの毎日新聞掲載の記事、添付しておきますね。 釈先生、どうもありがとうございます!
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タイの子どもたちは、食を恭しく捧げる親の背中を見て育つ。それが法灯の継承に繋がり、親以上に偉大な「拠り所」があることを直感する。また、「ぼくもー!」「わたしもー!」と、親と一緒に嬉しそうに僧侶の鉢にご飯を入れる子どもたちの姿もよく見かけるが、そうして幼少の頃より与えることの喜びを知る。「国の豊かさ」とは、こうして築かれていくものではないかと。 (เด็กๆ ในประเทศไทยเติบโตมาพร้อมกับการได้เห็นพ่อแม่ตักบาตรด้วยความเคารพศรัทธา ภาพเหล่านี้ช่วยส่งต่อมรดกทางจิตวิญญาณ ทำให้เด็กๆ ซึมซับและรับรู้ได้โดยสัญชาตญาณถึงการมีอยู่ของ "ที่พึ่งทางใจ" อันยิ่งใหญ่ซึ่งเหนือกว่าแม้กระทั่งพ่อแม่ของตนเอง เรามักจะเห็นเด็กๆ เข้ามาร่วมกิจกรรมด้วยความเบิกบานใจ พร้อมกับร้องบอกว่า "หนู/ผมด้วย!" ในขณะที่ช่วยพ่อแม่ตักข้าวใส่บาตร ซึ่งถือเป็นการเรียนรู้ความสุขจากการให้มาตั้งแต่ยังเยาว์วัย และอาตมาเชื่อมั่นว่า นี่คือวิถีทางแห่งการสร้างความเจริญรุ่งเรืองที่แท้จริงให้แก่ชาติบ้านเมือง) 田中さん、タイ僧侶の早朝の托鉢風景のシェア、どうもありがとうございます。
タイの瞑想寺レポート⑤ 托鉢では、小さいお子さんも タンブン(徳を積む)をします 僧侶さまのお経は、淡々として美しく ただ命としてあることに、感謝したくなります 仏教が受け継ぐ命の歴史、感じます プラユキ師の 『タイの瞑想寺リトリート11/19~24』募集中です! yokiennet.hatenablog.com/ent…
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プラユキ先生の 素晴らしく参考になるポストです☺️ ありがとうございます🙏 確か、 著書にも出てきた言語学の知見を 中心にまとめられていて これをポストで学べる点は ツイッター(現X)の 良いだなぁ〜と感激です🙇
私たち仏道修行者は、「行学二道」を旨とし、「学」から「行」へと進み、聞→思→修と智慧を深めていくプロセスを辿っていく。こうした学びと瞑想修行の関係を言語学(記号論)的知見を援用することで理解がより深まるのではないかと思いついたので、少し書いてみる。 まず「言葉」というものを理解するにあたっては、ソシュール(および後続の言語学・記号論)における記号の三要素構造を理解しておくといい。 記号の三要素の一つ目、「シニフィアン」とは、名称、音、文字そのものを指し、対象や概念を人に伝えるための表象形式(=言葉・ラベル)であり、仏教の「名施設(Nāma-paññatti)」にあたる。 次に、「シニフィエ」は、言葉(シニフィアン)を聞いたときに脳内に立ち現れる「概念・意味内容」であり、こちらは「義施設(Attha-paññatti)」に対応する。 そして、三つ目の「レフェラン」だが、これは「指示対象」を意味するが、とりわけ「気づき、観察系の瞑想(vipassana)」においての「指示対象」とは、ありのままに経験する「勝義(Paramattha)」の現象(名・色・心所)ということになる(※一般的に「レフェラン(指示対象)」は、実体がない概念も含む)。 これを「行学二道」や「聞・思・修」に当てはめると、まず、指導を受け取る段階(学 / 聞)において、指導者のレクチャーやテキスト(シニフィアン)から情報を受け取る。そしてその内容を脳内で概念化(シニフィエ)して整理、納得する(学 / 思)。 具体的には、指導者の説法や経典の言葉を元に、「五蘊とはこういう要素の集まりか」「無常とはこういうことか」という概念的モデルを構築し、「瞑想はこうやるのか」と実践方法を理解する。 その上で、瞑想(行 / 修)を実践する。とりわけ、気づきの瞑想においては、言葉によって「指示された対象」こそが、身、受、心、法というありのままに今ここで生じている勝義の現象である。 これは、通常「私の足が痛くてつらい」と概念化して捉える認識のあり方をいったん手放し、ただあるがままに身体の感覚現象と、心要素の働きのひとつひとつをありのままに観察していくことであり、それによってシニフィエ(施設)からレフェラン(勝義)へと次元を移行していくことになるのだ。 そして、その実践の結果、概念の媒介なしに、色・心・心所の生滅プロセスを直感(直接体験)し、無我・苦・無常の悟りへと至る。 最後に、こうしたプロセスを「仏道学習の三段階(教理学習Pariyatti→実践Patipatii→証悟Pativedha)」に当てはめると、「学Pariyatti」で学んだ概念が正しく勝義を指していたことを、「行Patipatii」の果てに自らの体験として照合、答え合わせできた(証悟Pativedha)ということになるのである。
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私たち仏道修行者は、「行学二道」を旨とし、「学」から「行」へと進み、聞→思→修と智慧を深めていくプロセスを辿っていく。こうした学びと瞑想修行の関係を言語学(記号論)的知見を援用することで理解がより深まるのではないかと思いついたので、少し書いてみる。 まず「言葉」というものを理解するにあたっては、ソシュール(および後続の言語学・記号論)における記号の三要素構造を理解しておくといい。 記号の三要素の一つ目、「シニフィアン」とは、名称、音、文字そのものを指し、対象や概念を人に伝えるための表象形式(=言葉・ラベル)であり、仏教の「名施設(Nāma-paññatti)」にあたる。 次に、「シニフィエ」は、言葉(シニフィアン)を聞いたときに脳内に立ち現れる「概念・意味内容」であり、こちらは「義施設(Attha-paññatti)」に対応する。 そして、三つ目の「レフェラン」だが、これは「指示対象」を意味するが、とりわけ「気づき、観察系の瞑想(vipassana)」においての「指示対象」とは、ありのままに経験する「勝義(Paramattha)」の現象(名・色・心所)ということになる(※一般的に「レフェラン(指示対象)」は、実体がない概念も含む)。 これを「行学二道」や「聞・思・修」に当てはめると、まず、指導を受け取る段階(学 / 聞)において、指導者のレクチャーやテキスト(シニフィアン)から情報を受け取る。そしてその内容を脳内で概念化(シニフィエ)して整理、納得する(学 / 思)。 具体的には、指導者の説法や経典の言葉を元に、「五蘊とはこういう要素の集まりか」「無常とはこういうことか」という概念的モデルを構築し、「瞑想はこうやるのか」と実践方法を理解する。 その上で、瞑想(行 / 修)を実践する。とりわけ、気づきの瞑想においては、言葉によって「指示された対象」こそが、身、受、心、法というありのままに今ここで生じている勝義の現象である。 これは、通常「私の足が痛くてつらい」と概念化して捉える認識のあり方をいったん手放し、ただあるがままに身体の感覚現象と、心要素の働きのひとつひとつをありのままに観察していくことであり、それによってシニフィエ(施設)からレフェラン(勝義)へと次元を移行していくことになるのだ。 そして、その実践の結果、概念の媒介なしに、色・心・心所の生滅プロセスを直感(直接体験)し、無我・苦・無常の悟りへと至る。 最後に、こうしたプロセスを「仏道学習の三段階(教理学習Pariyatti→実践Patipatii→証悟Pativedha)」に当てはめると、「学Pariyatti」で学んだ概念が正しく勝義を指していたことを、「行Patipatii」の果てに自らの体験として照合、答え合わせできた(証悟Pativedha)ということになるのである。
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タイの瞑想寺レポート④ 朝5時45分、托鉢に出発。 約5km、80分かけて、村を巡ります。 僧侶さまは、砂利道も裸足です! 清々しい朝陽の中、命の営みの目覚めを 気づき(サティ)と共に過ごすのは最高です プラユキ師の 『タイの瞑想寺リトリート11/19~24』募集中です! yokiennet.hatenablog.com/ent…
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アドラー心理学と仏教の教えは、いい感じに相互補完し合えるのではないかと思う。アドラー心理学が推奨する考え方に、「課題の分離」がある。たとえば、私が誠実に話したとしても、相手が私をどう思うか、好いてくれるか嫌いになるか、私の意見に賛同してくれるか否かまではコントロールできない。そうした他人の心までを自分が責任を負うということになれば、当然苦しくなる。この意味で、「相手がどう感じるかは『相手の課題』」という考え方には大きな意味がある。 ただし、それを「相手のことなどドウデモイイ」「傷ついたのはあなたの問題で、自己責任だ。私は関係ない」とまで言い切ってしまうのは、行き過ぎだろう。 これを補ってくれるのが、仏教の「縁起観」だと思う。 相手の感情は相手のものだとしても、その感情が生じる条件の一つに、こちらの言葉や態度が含まれていることもある。という意味で、「課題は分ける。しかし、縁は切らない」ことが大事だ。 そもそも、その相手に出会い、関係を持ったことも、何かのご縁。さらに、相手の言動に対して、こちらの心が少しでも動いたのであれば、それは「相手の課題」且つ「私の課題」でもある。なので、相手の反応に対して、何らかの対応を取ることも、ときに必要となるだろう。しかし、相手の反応や結果までコントロールしようとする必要はない。 ここにおいて、仏教の「捨」も有効だ。 「捨」とは無関心ではなく「無執着」の意だ。無執着とは、参考にはするけれど、握りしめない。学ぶべきことがあれば学び、なければ手放す。他人の評価を聞かないことではなく、聞くけれど、自己価値にしない。「気にしない」のではなく、「気にはする。でも、とらわれない」という態度である。そして、自分のできることがあれば、責任を持って、ベストを尽くす(それによって、「自他の抜苦与楽」実現の打率が上がる)。しかし、できないことまでは背負わない。 アドラーの「課題の分離」と、仏教の「縁起・捨」を組み合わせると、そんな生き方が見えてくる。
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いいですね>RP こんなのもどうでしょう。 貝を食べると、体が元気になる 戒を守ると、心が元気になる
ニンニクを食べると元気になる 忍辱を積み上げると元気になる 不思議なことですナァ
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タイの瞑想寺レポート③ 朝5時から法話。 毎日テーマが違うのに、 最後は必ず、気づき(サティ)の大切さに心打たれます。 浦崎さん(@uramasafaa)の通訳も最高です! プラユキ師の 『タイの瞑想寺リトリート11/19~24』募集中です! yokiennet.hatenablog.com/ent…
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『ダンマパダ』に、「na siyā lokavaḍḍhano」という言葉がある。例えば、岩波文庫の中村元訳では、「世俗のわずらいを増やすな」と訳出されているため、「世間的な問題や人間関係から離れよ」という意味にも読める。しかし原語のna siyāは「〜であってはならない」、lokavaḍḍhanoは、「loka(世界)+vaḍḍhana(増大・増殖させる)」から成り、直訳すれば、「世界を増殖させてはならない」という意味である。 ブッダのいう「世界」とは、単なる地球や社会、世間ではない。眼・耳・鼻・舌・身・意を通して経験され、そこに感受、渇愛、執着などが加わって成立する「私にとっての世界」である。 たとえば、仕事でミスをして上司から注意された。事実はそれだけでも、そこに不快な感覚が生じ、「また失敗した」「自分を否定された」「私はダメな人間だ」「皆から嫌われる」などと思考が展開することで、ひとつの出来事から「私の物語」が成立し、苦悩が増殖していく。これが「世界を増大させる」ということだ。 ブッダが説いたのは、世間から逃げることではない。無自覚のうちに、事実そのものに受、想、渇愛、執着、妄想を重ね、心の中で「私」と「世界」の物語を際限なく膨らませていく、その連鎖に気づくことである。 また、心の増殖を止めるとは、何も考えず、世間に無関心になることではない。事実と妄想を見分け、余計な恐れや自己否定に苛まれず、明晰に問題を把握し、状況に合わせて、的確に応答できるようになることだ。 心の中の「世界」を増やさない人ほど、現実の世界から逃げる必要がなくなる。人間関係や社会の問題に対しても、執着や思い込みに縛られない自由な心で関わることで、よりよい解決を生み出せるようになるのである。
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タイの瞑想寺レポート② 一日の始まりは 朝4:30の読経から。 パーリー語とタイ語の穏やかな音色が心地いい… 日本語のフリガナと訳がついた経本があり、すぐに声に出せます。 プラユキ師の 『タイの瞑想寺リトリート11/19~24』ご一緒しましょう! yokiennet.hatenablog.com/ent…
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