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Joined April 2015
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飢餓感レベルで承認に飢えている人って基本のベースに自分の感覚を無視して何でも無理をする癖があるから、他人とどれだけ深い関係になったところで、その無理しすぎる癖を直していかない限りはどうやっても満たされない。自分の嫌だとか疲れたとか、本当はこうしたいという感覚を無視し続けていると、その犠牲に見合うだけの愛情や評価を誰かから受け取らないと割に合わなくなってしまう。
しかも、無理をしている自覚がない人ほど、自分がこれだけ頑張っているのだから相手も同じだけ返してくれるはずだという期待を無意識に抱きやすいが、どれだけ大切にされても、日常的に自分の感覚を無視し続けている限り欠乏感は蓄積していくので、承認を受け取っても一時的にしか満たされない。人は無理した分だけ承認に飢えるようになるし、自分を犠牲にして得た承認ほど、その犠牲を埋め合わせるためにさらに多くの承認が必要になる。
人は「その人のフラストレーションの矛先」に敏感なので、この人は自分の満たされなさを他人に向ける怨念体質だと察知されて警戒されてしまうと仲良くなるのは難しい。しかもこれは自分磨きとは全く別の領域の問題なので、いくら外見や能力を磨いても解消されない。
警戒されている領域が違うのに別の領域で努力する→それでも警戒される→理解されないことへのフラストレーションがさらに溜まる→その怒りの矛先がまた他人に向く→怒りと不満に満ちた闘争心だらけの雰囲気をさらに警戒されるという悪循環に陥る。
好かれやすい人は満たされないことがあっても他人にそのケア役の解消を求めないから相手も安心して関われるし、関係が深まることで自然と肯定的な経験もどんどん増えていく。
「女性は弱者男性を嫌う」という話題では、すぐ「女性は男をスペックで見ている」という話になる。
低スペックだから、恋愛対象として選ばれにくい。なるほど、そういうことはあるかもしれない。
でも、「この人には深入りしないほうがいい」「下手に優しくすると面倒なことになりそう」「なんとなく怖い」という警戒心までは、スペックでは説明できない。
「選ばれない」と「警戒される」は別の現象なのである。そこを、よく見ないといけない。
女性が怖がっているのは、男が弱いことそのものではない。
弱った男が、その弱さを自分にどう向けてくるか、なのである。
仕事で報われない。社会で認められない。恋愛経験も少ない。孤独で、自信もない。そこまでは別に加害性ではない。
怖いのは、そのフラストレーションが「だから俺を理解してくれ」「俺を安心させてくれ」「俺を傷つけるな」「俺を好きになってくれ」に変わることだ。
弱さそのものに加害性はない。弱さを他人への請求権に変えたとき、加害性が生まれる。
女性が見ているのは、男が弱いかどうかではない。満たされなかったときに、こちらをどう扱う男なのかだ。
かぽ retweeted
こういう脳トレ的な遊びって高齢者ばかりやってるけど、過緊張や感覚過敏、不器用さゆえの疲れやすい人こそやったほうが良い。視界からの情報処理が上手く出来ないと刺激を受け取りすぎるし、物と身体を思い通りに動かせないのは日常生活でも理想とのギャップが出てくる。
コルチゾールを抑えられるのは市販品だと百草丸で、整腸作用や消化機能の調整もある優れもので、お腹の調子が悪いときにもストレスが強かった日にも使える。
ただし、長期間コルチゾールが分泌され続けすぎて分泌が少なくなるとコルチゾール抑制がかえって倦怠感が悪化させるからコルチゾールを温存するリコリスや、塩分補給のほうが向いている人もいる。
カメラの焦点距離によって顔の見え方は別人に見えることはもっと広がったほうがいい。レフ板の有り無しみたいに光の当たり方でも別人になるし、スマホのカメラで撮ることを推奨してるプロも見たことない。
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身内に「昇華癖のある人の感情表現はいくら聞いても聞き苦しくならない」と言われたことがあって、昇華癖とは生の感情をそのまま吐き出さずに、一般法則や原理、構造のレベルまで掘り下げてから表現する人のことらしいが、確かにそこまで感情を調理すると、個人的な体験の中から普遍性が生まれて、聞き苦しくないどころか、意図していなくても他人がずっと言語化できずにいたモヤモヤや違和感まで晴らしてしまう効力すらある。
しかも、生の感情をそのまま表現するよりも、なぜそう感じたのか、何が起きていたのか、その背景にどんな構造があるのかまで見えてくるので、自分自身も時間は少しかかるけれど、結果的にはそのほうがずっと深く救われる。
感情の発散は一時的な緊張を和らげることがあっても、問題の理解はその感情を生んでいた認識そのものを変えるし、理解が深まることで得られる納得感には感情を吐き出すこととは違う持続性がある。
ミイラ取りがミイラになるみたいな話で、いくら自分が本当に正しくても、何かを否定し続けることに執着していると、いつの間にか自分自身が悪霊に転じてしまうことがある。最初はおかしいことをおかしいと言っていただけなのに、否定すること自体が目的になり、気づけば自分の時間も思考も感情も、嫌いなものに支配されてしまう。
何が問題なのかを見極め、自分の在り方や態度が決まったら、それ以上考え続ける必要もない。正しさを証明し続けることと、正しく生きることは別の話だし、自分が否定しているものに、自分の人生まで明け渡す必要はない。
何かを否定し続けていると、思考だけでなく、表情や声色、振る舞いにまでその人の敵意や警戒心が滲み出るようになる。最初は正当な怒りだったとしても、長期間その対象を意識し続けることで、物事を見る目がどんどん険しくなり、他人の言動にも悪意を見出しやすくなる。そうして雰囲気や顔つきまで険しくなっていくことがある。何を否定するかは自分で選べても、否定し続けることで自分がどんな人間になっていくかまでは無関係でいられない。
















