
ALT 「ねえラーマ、解析テンプレートについてなんだけどさ……」 手元のタブレットに視線を落としたまま、エニアは首席の自室の扉を押した。音もなく滑らかに開いたそれは、しかし開き切る直前に、ガンッと硬質な音を立てて止まる。ガラガラガラと、崩れて転がる音が続く。 「ちょっと!」と、扉の内からはいつも通り簡単に毛を逆立てたらしい少女の声が飛んでくる。何かをしでかしたらしいことに、エニアは苦笑して頬を掻いた。 「ごめんごめん、片付けなら手伝うからさ〜……」 エニアはへらへらと笑いながら半開きの扉から体を滑り込ませた。だが己の「やらかし」を目にした途端、その異様な光景にピタリと動きが止まる。 真っ黒な本体にプリントされた、眠りを知らない街を思い起こさせるネオンカラー。微かながら空気中に蓄積した独特の甘ったるい匂い。大量のひしゃげた缶が床に転がっていた。ゴミ箱自体は倒れずにいたことから、どうやら転がった空き缶たちは、入り切らずにゴミ箱の上に積み重ねられていたらしいことが推察できる。 「ラーマ、これって……」

ALT 惨状から目を上げると、机の脇には空き缶と同様の模様が描かれた大きな箱が、二つ積み重なっている。どうやら首席は、この不健康な飲み物を常飲しているらしい。 今までも、学会前の追い込みの時期などに自販機でこの飲み物を購入しているところを見たことはあった。その度に、厳しくも寛大な上長から咎められ、余計なお世話だと跳ね除ける少女の姿が定番の光景となっていたのだ。なんだかんだと言いつつも、頑固な天才はそれを飲むのは切迫詰まった状況に限っていたはずだった。 「これ?よく分からないけど、あいつが急に送りつけてきたの。『真理の探究に役立ててくれ』とか言って」 前は小言がうるさかったけど、ようやくあいつも子供扱いをやめたのね、と得意げに語る少女に、エニアは眉を顰める。具体的な名前は出されないまでも、少女の反応から「あいつ」が誰を指すのかは一目瞭然だった。彼女が自立を認めたと言えば聞こえは良いが、現にこのありさまである。人をよく観察し、二手先三手先まで読むのが常であったその人が、こうなることを想像できなかったわけもない。

ALT まして、単なる放任ならまだしも、自ら積極的にこの「支援」を行ったというのだから、妙なものだった。他でもない「彼女」からこのようなことをされれば、こうなることは分かり切っているはずだ。少女は決して認めないだろうが、実のところ誰よりも彼女を認めていた人間として、有頂天にならないはずがないのである。ついに保護対象ではなく、自立した研究者として期待を寄せられたのだ、と。 「ラーマ、どれだけの短期間でこんな量を飲んだの?流石に……」 「なによ、今度はあんたが保護者面するつもり?」 またもや毛を逆立てた少女に睨みつけられ、エニアは分かった分かったと両手を上げた。研究仲間として心配はするが、確かに「保護」は自分の仕事ではない。 それより聞きたかったことなんだけど、と本題に戻りながら、エニアは脳内でひっそりとスケジュールを立てる。「彼女」に会いに行こうと。

ALT 「所長〜?調子はどうですか?」 「何度も言っているが、私はもう所長ではない。呼ぶなら単にアイセメルと呼んでくれ」 件の出来事があってから数日後、エニアはニューシティの外れにある療養施設を訪れた。詳しい組織編成は知らないものの、どうやら上庭やMBCCと関連のあるらしいこの施設は、その物々しい肩書きの割には療養施設らしい穏やかな時間が流れている。ただいかにも上庭らしいというか、一面真っ白で一切の飾り気もなく、とにかく整然とした作りは、俗世とは全く切り離された環境にいると感じさせる。療養施設の姿をしたそれは、その実、世に触れさせることの出来ない罪人を収監する穏やかな監獄であることを、誰もが知っている。 かつて重大な裏切りを行ったリング研究所の元所長は、その罪状の割には寛大すぎる処遇となった。もはや脅威にならないほど衰弱しきっていたこと、一切の反抗心を見せなかったこと、地底に関する重要な情報源であったこともその処遇の理由だが、もっとも大きな理由はEDGE-07たるラーマと、MBCC局長の尽力にある。上庭側としては廃人になられてしまっては困るから、「適当な刺激」としてなのだろうが、彼女のかつての教え子たちが面会に来ることも許容されていた。


