兵庫県西宮市にある高野山真言宗 鷲林寺住職です。声明(しょうみょう)を専門としております。声明とは仏教音楽です。声明という音楽を通して人々が幸せになって頂けたらと願います。西宮市鷲林寺住職/高野山増長院兼務住職/高野山専修学院能化/兵庫県仏教会副会長/密教/仏教/真言宗/高野山/弘法大師/南山進流声明/六甲修験/読書

兵庫県西宮市
Joined September 2018
徳川家康の訓示 「勝つことばかり知りて 負くるを知らざれば 害その身に至る。 己を責めて人を責めるな。 及ばざるは過ぎたるより勝れり」 勝つことばかり考え、負けから学ぶことを知らなければ、やがて自分自身を損なうことになる。 人を責める前に、まず自分を振り返る。そして、やり過ぎるよりも、少し足りないくらいがよい。 家康は30歳の頃、三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗しました。 その後も武田家に苦しめられましたが、武田家が滅亡すると、家康はその家臣たちを召し抱えます。 自分を苦しめた相手であっても、その優れた力を認め、学ぼうとしたのです。 相手を憎んで終わるのか。それとも、相手から学び、自分の成長につなげるのか。 その違いが、やがて大きな差を生むのではないでしょうか。 この姿勢は、弘法大師の生き方にも通じるように思います。 大師は高野山を開くにあたり、土地の神である丹生明神・高野明神をお祀りすることを大切にされました。 自分のために、これまでのものを排除するのではない。先にそこにあるものを尊重し、ともに歩む道を選ばれたのです。 そこには、さまざまな存在を排除せず、それぞれのはたらきを生かしていく、曼荼羅の精神が感じられます。 勝つことだけが、強さではありません。 自分と異なるものから学び、相手のよさを認め、ともに生かし合う。 家康の生き方と弘法大師の教え。 そこには、私たちが幸せに生きるための、大切な智慧があるように思います。
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徳川家康の訓示 「堪忍は無事長久の基 憤は敵と思え」 腹が立ったとき、つい感情に任せて言い返したり、相手を責めたりしてしまうことがあります。 しかし、その一言が、後悔や争いのもとになることもあります。 だからこそ家康公は、怒りを自分の敵と思い、堪え忍ぶことの大切さを説かれたのでしょう。 では、『般若心経秘鍵』の教えから考えてみましょう。 私たちは怒りを感じると、 「相手が悪いから、私は怒っている」 と思いがちです。 そんなとき、少しだけ立ち止まってみます。 「私は今、腹を立てているんだな」 そうやって、自分の心を見つめてみるのです。 怒りがすぐに消えなくてもかまいません。 自分が怒っていることに気づけば、感情に任せて行動する前に、考える余地が生まれます。 仏教の「空」の智慧も、物事を自分の見方だけで決めつけないことにつながります。 「本当に、相手だけが悪いのだろうか?」 そう問い直すことで、今まで見えなかった事情に気づくこともあるでしょう。 文殊菩薩が手にする利剣は、相手を打ち負かすための剣ではありません。 自分の思い込みや、物事を一面的に決めつける心を断ち切る智慧の剣として捉えることができます。 相手を斬るのではなく、自分の思い込みを斬る。 怒りに振り回されず、自分の心を見つめ直す。 そこに、争いを避け、穏やかに生きるための智慧があるのではないでしょうか。
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徳川家康の訓示 「心に欲おこらば 困窮したる時を思い出すべし」 この文章を見て、思い出す言葉があります。 「いつまでも、あると思うな親と金」 子どもの頃、母がよく説いてくれた、懐かしい言葉です。 親はいつまでも面倒を見てくれるわけではなく、お金も使えばなくなります。 人に頼り切らず、自分の足で立ち、与えられたものを大切にする。 このことわざには、そんな戒めが込められています。 さらに、 「ないと思うな運と災難」 という続きもあります。 幸運も災難も、思いがけず訪れることがある。だからこそ、油断せず、目の前の暮らしを大切にする。 家康の訓示にも、通じるものがあるように思います。 では、『般若心経秘鍵』の智慧から見ると、どうでしょうか。 欲しいものが手に入ると、うれしいものです。 しかし、一つ手に入れば、また次のものが欲しくなる。 そうしているうちに、今ある幸せを忘れてしまうことがあります。 私にも思い出があります。 学生の頃、欲しくて欲しくて仕方がなかった軽自動車。 お金を貯めて遂に購入することができました。 手に入った時の喜びはものすごいものでした。 でも、その喜びは一年も続きませんでした。 次は少し大きな車が欲しくなる。 軽自動車が手に入ったときは、一生涯大切にするとまで思ったものです。 このように欲は次から次に湧いてきます。 でも… 大切なのは、欲をすべてなくすということではありません。 欲に心を奪われたとき、いったん立ち止まり、自分の心を見つめ直すことです。 『般若心経』には「無所得」という言葉があります。 何かを手に入れることだけに執着し、それによって幸せが決まると思い込まない。 今あるものに感謝し、本当に大切なものは何かを見極める。 そこに、般若の智慧があるのではないでしょうか。
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徳川家康の訓示 「不自由を常と思えば不足なし」 例えば、スマートフォン。 いつでも連絡ができる。 分からないことは、すぐに調べられる。 遠くの人とも、顔を見ながら話ができる。 本当に便利な時代になりました。 けれども、いつでも連絡が取れることが当たり前になると、少し返信が遅いだけで不安になる。 何でもすぐに手に入るようになると、手に入らないことに腹が立つ。 便利さが増した一方で、私たちは知らず知らずのうちに、「これがあって当たり前」という基準を増やしているのかもしれません。 昔に戻る必要はありません。 便利なものは、ありがたく使えばよいと思います。 ただ、その便利さを当たり前と思ってしまう心に気づくこと。 すると、今まで見過ごしていた小さな幸せが、もう一度見えてくるかもしれません。 「不自由を常と思えば不足なし」 この言葉は、単に昔の不自由な暮らしを思い出しなさい、という教訓だけではありません。 『般若心経秘鍵』の一つの教え。「禅那・正思惟」が示す意味。 自分が当たり前だと思っている基準を見つめ直してみなさい。 そう読むことで、現代を生きる私たちにも、新しい意味をもって響いてくるのではないでしょうか。
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徳川家康の訓示 「急ぐべからず」 例えば、仕事で失敗したとき。 失敗そのものもつらいですが、 「早く取り返さなければ」 「能力がないと思われたくない」 「失敗した自分を認めたくない」 そんな思いが、さらに自分を苦しめることがあります。 もちろん、失敗した問題は解決しなければなりません。 けれども、焦って行動する前に、一度立ち止まってみる。 「自分は今、何に焦っているのだろう?」 そうして自分の心を見つめ直すことで、違った答えが見えてくるかもしれません。 『般若心経秘鍵』の智慧を、日常の中で生かすなら、こうした立ち止まる姿勢も、その一つではないでしょうか。 猪突猛進も大切ですが、失敗したときこそ、慌てて走り出す前に一歩退いてみる。 急がないことは、前に進まないことではありません。 よりよく進むために、立ち止まることも大切なのですね。
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徳川家康の訓示 「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くが如し」 という言葉から始まります。 人生には、思いどおりにならないことがたくさんあります。 けれども、私たちはなぜ、思いどおりにならないと、こんなにも苦しくなるのでしょう。 そこには、 「こうあるべきだ」 「自分は間違っていない」 「失敗してはいけない」 という、自分自身の思いが隠れていることがあります。 もちろん、現実の苦しみがすべて心の持ち方だけで解決するわけではありません。 それでも、自分の心が何にとらわれているのかに気づけば、苦しみとの向き合い方は少し変わるかもしれません。 文殊菩薩の利剣とは、相手を斬る剣ではなく、自分の思い込みを断ち切る智慧。 まずは、自分の心を見つめてみる。 そこから、新しい一歩が始まるのではないでしょうか。 「禅定の心をもって正思惟する」ということですね。
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高野山で約40日間の修行をしていた時、たまたまこの言葉が書かれた掛け軸を見ました。 「人の一生は重荷を負うて 遠き道を行くが如し  急ぐべからず 不自由を常と思えば不足なし 心に欲おこらば 困窮したる時を思い出すべし 堪忍は無事長久の基 憤は敵と思え  勝つことばかり知りて 負けることを知らざれば 害 その身に至る 己を責めて人を責めるな 及ばざるは過ぎたるより勝れり」 徳川家康の訓示です。 一見すると、 急ぐな 欲を抑えよ 怒るな 負けを知れ 人を責めるな という「生き方の訓戒」に見えます。 ところがこれを『般若心経秘鍵』の智慧から見ると、 「自分の心を、そのまま信じ切らない智慧」 として読むことができます。 たとえば、 「あの人が悪い」 「自分は正しい」 「もっと欲しい」 「負けたくない」 「今すぐ結果が欲しい」 こうした思いが起こったとき、 智慧とは「その思いを消すこと」ではありません。 「ちょっと待て。本当にそうなのか?」と、自分の心を一歩離れて見ること。 ここに、文殊菩薩の「利剣」が働くと考えると非常にわかりややすくなるのです。 「憤は敵と思え」も、単に「怒ってはいけません」という道徳ではなく、 怒りに飲み込まれている自分を、智慧によって見抜くという方向に持っていけます。 そして最後の、 「己を責めて人を責めるな」 も素晴らしいです。 これは「何でも自分が悪いと思え」という意味ではなく、 人を責める前に、自分の中に生まれている思いを見つめてみる。 「なぜ私は、こんなに腹が立っているのだろう」 「なぜ私は、負けたくないのだろう」 「なぜ私は、認めてもらいたいのだろう」 そこに気づいた瞬間、心の中に少し空間が生まれます。 その「空間」が、まさに『般若心経』のいう「空」を、 現代の私たちの生活の中で感じる入口になるのではないでしょうか。 家康の訓示は、人生を生きるための知恵を教えてくれます。 そして弘法大師の『般若心経秘鍵』は、そうした知恵を妨げる、自分自身の思い込みや執着を見つめる智慧を教えてくださいます。 同じ言葉でも、どこから見るかによって、新たな気づきが生まれる。 たまたま目にした一本の掛け軸が、『般若心経秘鍵』の智慧へとつながっていく。 仏教の教えは、決して遠い世界の話ではありません。 私たちの日常の中にこそ、知恵から智慧へと発展していく。その入口があるのかもしれません。
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先日、墓じまいをされた方から、こんなお話を伺いました。 「これでホッとしました」 「子供たちに苦労をさせずに済みます」 その言葉を聞いて、ふと考えました。 私たちは、何のためにお墓を守っているのでしょうか。 お墓は、御先祖を供養し、亡き人を偲び、自分の命がどこから繋がってきたのかを見つめ直す、大切なご縁の場です。 手を合わせることで、今の自分が決して一人で生きているのではないことに気づく。 そして、御先祖から受け継いだ命を、今度は自分が次の世代へと繋いでいく。 そうした感謝の心を育むことに、お墓の大切な意味があるのだと思います。 しかし、いつしか「お墓を守り続けなければならない」という思いが強くなり、それが子供たちへの負担や、自分自身の苦しみになってしまうこともある。 そのとき、本来は私たちの心を豊かにするためのものであったはずのお墓が、逆に心を縛るものになってしまう。 「目的と手段の逆転」とは、まさにこのことなのだと思います。 逆に、墓じまいをして「ホッとした」とおっしゃる方がいても、それだけで御先祖への思いが薄いとは言えません。 経済的な事情もあれば、遠方に住んでいる事情もあります。子供たちに負担を残したくないという思いも、そこにはあるでしょう。 大切なのは、お墓という形を残すかどうかだけではなく、その人が御先祖への感謝を、どのような形で次の世代へ繋いでいくかということではないでしょうか。 お墓を守り続けても、心が苦しみだけに覆われてしまえば、本来の意味を見失うことがあります。 一方で、墓じまいをしても、折に触れて御先祖を偲び、感謝の心を持ち続けることはできます。 形が変わっても、感謝の心まで失われるわけではありません。 もちろん、お墓を守り続けることにも、大切な意味があります。 どちらか一方が正しいということではなく、それぞれの事情の中で、何を大切にしていくかが問われているのだと思います。 単に墓じまいの是非を考えているのではなく、そこから「私たちは、何のためにそれをしているのか」という、仏教の根本的な問いに目を向けることが肝要かと思います。 これは、お墓に限った話ではありません。 仏教を学ぶのも、修行をするのも、儀式を営むのも、本来は私たちが智慧を育み、苦しみを離れ、よりよく生きるためのものです。 ところが、いつしか形式を守ること自体が目的になり、形式を守れない人を責めたり、自分自身が苦しんだりすることがある。 そうなったとき、もう一度、本来の目的に立ち返る必要があるのだと思います。 弘法大師が『般若心経秘鍵』を通して説かれる般若の智慧は、私たちが物事を自分の思い込みや固定した見方だけで捉えるのではなく、その奥にある真実を見つめるための智慧でもあります。 お墓はこうあるべき。 供養とはこうするもの。 幸せとはこういうもの。 私たちは、知らず知らずのうちに、自分の中に決まりを作り、その決まりに縛られてしまうことがあります。 だからこそ、ときどき立ち止まって考えてみる。 「私は、何のためにこれをしているのだろう?」 その問いが、執着を見つめ直し、本当に大切なものに気づくきっかけになるのかもしれません。 形を守ることだけに心を奪われず、形に込められた心を大切にする。 そして、受け継いだ命を感謝とともに生きていく。 そこに、お大師さまの智慧を日々の暮らしに生かす道があるのではないでしょうか。 お墓を守ることが大切なのではなく、御先祖から受け継いだ命を大切に生きること。 そして、「自分が受け継いだものを、次の世代へよりよい形で繋いでいきたい」という考えにも、通じると思います。 御先祖への感謝とは、ただ過去を振り返ることではなく、受け継いだ命をどう生き、未来へ何を手渡すかということでもあるのでしょう。 墓じまいをきっかけに、私たちが日々の暮らしの中で何かに執着し、本来の目的を見失っていないかを問い直す、よい機会になるのではないでしょうか。 私たち誰しもが、 「手段を目的にしてしまうことがある」 という問いかけになれば幸甚です。
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誰でも職場や学校で失敗したことがあると思います。 「また失敗してしまった」 「自分は何をやってもダメだ」 と思ってしまいます。 でも、 「失敗した」ことと、 「自分はダメな人間だ」ということは同じではありません。 ここで一度立ち止まります。 立ち止まることが禅定です。 「何がうまくいかなかったのだろう?」 「次はどうすればいいだろう?」 とゆっくりと考えてみます。 時間をかけて考えること。これが、正思惟ですね。 失敗を自分を責める材料にするのではなく、自分を育てる材料に変えることが肝要ではないでしょうか。
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弘法大師は『般若心経秘鍵』で 「無辺の生死(しょうじ)は何(いか)んがよく断つ。唯、禅那(ぜんな)、正思惟(しょうしゆい)のみ有ってす」 と続けられます。 凡夫は無限に続く生死の苦しみをどのように断てばよいのでしょうか。それはただ般若の徳である「禅定」と、文殊の徳である「正しい思考」によるのです。 このように弘法大師は、苦しみの断ち方について説かれています。 その鍵が「禅定」と「正思惟」です。 難しく聞こえますが、私たちの日常にもあることです。 たとえば、LINEを送ったのに、なかなか返事が返って来ない。 「嫌われたのかな」 「怒っているのかな」 「何か悪いことを言ったかな」 頭の中で、どんどん物語ができていきます。 でも、そこで一度立ち止まってみる。 「本当に、そうなのだろうか?」 相手は仕事中かもしれない。 スマホを見ていないだけかもしれない。 返事を考えているのかもしれない。 この「いったん立ち止まる」が禅定。 そして、 「自分は今、思い込みで決めつけていないだろうか」 と見直すのが正思惟です。 苦しみは、出来事そのものよりも、 私たちの心が作り出した「物語」によって、大きくなることがあります。 だからこそ大師は、 「苦しみに出会ったら、すぐに答えを出さなくていい。 まず心を静め、智慧をもって見つめなさい」 と教えてくださっているように思います。 立ち止まることは、逃げることではありません。 自分を苦しめている思い込みから、 一歩離れて見るための時間なのです。
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「チク」と「マン」 これは、ただの二つの音ではありません。 『般若心経秘鍵』では、 チク=般若菩薩 マン=文殊菩薩 を表す「種子(しゅじ)」とされます。 密教では、梵字一字によって仏さまを表すことがあります。 それが「種子」です。 一字の中に、その仏さまの智慧や徳、はたらきを凝縮して表すのです。 たとえば、一粒の種。 手のひらに乗るほど小さくても、その中には、やがて大きな木へと育つ可能性が秘められています。 種子も、それと似ています。 「チク」という一字に般若菩薩の智慧を。 「マン」という一字に文殊菩薩の智慧を。 小さな一字の中に、大きな智慧の世界が込められているのです。 そして、お大師さまは続けて、 「諸教を含蔵せる陀羅尼なり」 と説かれます。 一字の中に、さらに多くの教えが含まれている。 小さな一字から、限りなく大きな世界が開いていく。 これが、密教の「種子」の奥深さです。 そして、これは私たちにも通じるのではないでしょうか。 今はまだ小さくても、 自分では気づいていなくても、 誰の中にも、これから育っていく可能性があります。 大切なのは、焦って大きくなろうとすることではなく、その種を大切に育てていくこと。 焦らず、ボチボチと。
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一粒の種には、 やがて大きな木へと成長する可能性が含まれています。 同じように、密教の「種子」は、 一字の中に、その仏さまの智慧やはたらきを凝縮しています。 だから、一見すると小さな一字でも、 そこから大きな教えの世界が開いていく。 お大師さまが 「諸教を含蔵せる陀羅尼なり」 とおっしゃるのも、 そう考えると少し身近に感じられます。 小さな一字の中に、大きな世界がある。 そういうことだと思います。 これは華厳の「一即多」という思想にも自然につながります。 華厳の「一即一切・一切即一」という発想では、一つのものの中に全体が映り、全体の中に一つが生きているという世界観があります。 お大師さまも、華厳の思想を深く受け止めながら、それを密教の立場からさらに展開されています。 今回の チク=般若菩薩 マン=文殊菩薩 も、 「たった一字なのに、その一字の中に、その尊の智慧だけでなく、そこから広がる教えの世界がある」 と考えると、まさに「一の中に多があり、多の中に一がある」という感覚で捉えることができますね。 ✴︎写真は胎蔵種子曼荼羅(法曼荼羅)です。
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弘法大師は『般若心経秘鍵』で、 「文殊の利釼は諸戯を絶つ。 覚母の梵文は調御の師なり」 に続いて、 「チク・マンの真言を種子とす。 諸教を含蔵せる陀羅尼なり」 と説かれます。 ここに出てくる「チク」と「マン」は、般若菩薩と文殊菩薩を一文字で表す梵字。 このように、一字の中に一尊の仏さまの徳を込めて表す文字を「種子(しゅじ)」といいます。 種子は、いわば「仏さまのエッセンス」 小さな一粒の種の中に、やがて大きな木になる力が秘められているように、一字の中に、その仏さまの教えやはたらきが含まれていると考えます。 そして大師は、この「チク・マン」を、 「諸教を含蔵せる陀羅尼なり」 即ち、あらゆる教えを含んだ陀羅尼(だらに)だと説かれます。 「陀羅尼」とは、長い真言だけを指す言葉ではありません。 もともとは「心を一つに保つ」「大切なものを持ち続ける」という意味を持ち、「総持」とも訳されます。 つまり、たった一字でも、そこに仏さまの教えをしっかりと保っている。 一字の中に、無数の教えが広がっている。 これが「種子」と「陀羅尼」の面白いところなのです。 一文字は小さくても、そこに込められた世界は、とても大きい。 お大師さまは、そんな「一即多」の世界を見ておられたのかもしれません。 写真は文殊菩薩の種子「マン」です。
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一本のろうそくがあります。 その火で十本のろうそくに火を灯しても、 最初の火は小さくなりません。 智慧も同じです。 功徳も同じです。 回向(えこう)とは、 「自分だけ明るければいい」 ではなく、 その光を周りにも灯そうとする心です。 だから功徳(くどく)は 積んでも積んでも ”減る”ものではないのです。
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フォロワーの皆さま。ご迷惑をおかけしました。 約40日の修行を終えて、帰ってまいりました。 明日からまた、ボチボチと自分のペースで、自分なりに、弘法大師の『般若心経秘鍵』を解説しながら、皆様のお役に立てれるようにポストしていこうと思います。 宜しくお願い致します。
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フォロワーの皆さまには、いつもポストを読んでいただき感謝申し上げます。 私ごとではございますが、約40日間、修行に入ります。 修行に集中したいと思いますのでその間、投稿をお休みさせて頂きます。 修行が終わりましたら再開させて頂きたく思いますで引き続き宜しくお願い申し上げます。                       合 掌                   栄善拝
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たとえば、苦手な人から、 「あなたは、こういうところがダメだ」 と言われたとします。 「なぜ、そんなことを言われなければならないんだ!」 腹が立つのも当然です。 でも、ここで少し立ち止まってみます。 私は今、相手の言葉そのものに怒っているのだろうか。 それとも、 「きっと自分のことを嫌っている」 「いつも馬鹿にしている」 「絶対に許せない」 と、その一言から自分の中で作り上げた物語に怒っているのだろうか。 ここで働くのが、文殊菩薩の智慧です。 『般若心経秘鍵』には、 「文殊の利剣は諸戯を絶つ」 とあります。 文殊の利剣は、相手を斬る剣ではありません。 自分の心の中で膨らんでいく、思い込みや決めつけ、「こうに違いない」という戯論を断ち切る智慧の剣です。 心の中の余計な物語を手放していくと、少し心に余裕が生まれてきます。 すると、般若の智慧が働き始めるのです。 「この人の言葉にも、自分では気づかなかった何かがあるのではないか」 「この人を嫌っている自分にも、何か理由があるのではないか」 そうやって見つめ直すことで、 「この人は嫌な人だ」 「自分は被害者だ」 と固定していた見方から、少しずつ解放されていきます。 これもまた、「空」の智慧の一つではないでしょうか。 そして、ここから 「覚母の梵文は調御の師なり」 という言葉につながります。 「覚母」とは般若のこと。 般若は、悟りを生み出す母です。 般若の智慧によって、自分自身の心が少しずつ目覚め、調えられていく。 そう考えるなら、苦手な人との出会いも、ただの「嫌な出来事」ではなくなります。 その人との関わりを通して、自分の心の動きを知り、心を調えていくことができる。 私は、苦手な人は「鏡」のようなものかもしれないと思います。 鏡の中の自分を変えようとしても、変わりません。 こちらが動けば、鏡の中の自分も動きます。 同じように、相手を変えることは難しくても、自分の心の持ち方は変えることができます。 文殊の智慧で、心の中の戯論を断つ。 般若の智慧で、もう一度、物事を見つめ直す。 そして、自分自身の心を調えていく。 それが「調御」ということなのではないでしょうか。 嫌いでもいい。 腹が立ってもいい。 無理に好きになる必要もありません。 ただ、その人に、自分の心まで支配させないこと。 もしかすると、私たちが「苦手だな」と思っている人こそ、心を調えてくれる「師」なのかもしれません。 そのための智慧が、文殊菩薩の利剣であり、般若菩薩の智慧なのです。
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産婦人科の先生から、こんなお話を伺いました。 赤ちゃんが生まれてくるとき、そこにはものすごい力がある。 まだ言葉も知らない小さな命が、 必死になって、この世界へ出てこようとする。 その姿には、 「生きよう」とする命のエネルギーを感じるのだそうです。 私たち誰もが「生きよう」とするとエネルギーを持って生まれてきたはずです。 ところが… 「どうして生まれてきたんだろう」 「自分は生まれたいなんて頼んでいない」 そんな思いを抱く時もあるかもしれません。 けれど、今ここにいる。 生まれようとした命の力は、 生まれた瞬間に消えてしまったのではなく、 今日まで私たちの中に続いているのではないでしょうか。 弘法大師は『般若心経秘鍵』を通して、 『般若心経』の奥にある智慧を明らかにされました。 その智慧は、 「何かを手に入れなければ、あなたには価値がない」 というものではありません。 私たちの存在そのものに、 深い智慧の世界が具わっている。 だからこそ、 「生きなければならない」と自分を責めるのではなく、 まず、 「ここまで生きてきた自分の命を、大切にしてみよう」 そう思ってほしいのです。 生きることは、 一人で頑張り続けることではありません。 苦しいときには、 誰かの手を借りてもいい。 立ち止まってもいい。 泣いてもいい。 それでも、あなたの命の中には、 生まれようとした、あの日から続いている力があるのです。 生まれようとするエネルギーと生きようとするエネルギーは つながっているはずです。 あなたが今ここにいることには、 それだけで大きな意味があるのです。
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『般若心経秘鍵』の冒頭で、弘法大師は二人の菩薩を登場させます。 「文殊の利剣は諸戯を絶つ」 「覚母の梵文は調御の師なり」 文殊菩薩と、般若菩薩です。 なぜ、最初にこの二人なのでしょうか。 観音菩薩と不動明王ではダメだったのでしょうか。 私たちは、物事を見るとき、 「きっとこうだ」 「自分が正しい」 「あの人はこういう人だ」 と、知らず知らずのうちに決めつけてしまいます。 それは、智慧の世界へ入っていくときの「壁」のようなもの。 文殊菩薩の利剣は、その壁を断ち切ります。 そして、その思い込みや分別を超えたところで、 「物事を本当の姿で見る智慧」が開かれてくる。 それを象徴するのが、般若菩薩です。 文殊が「断ち切る智慧」なら、 般若は「見抜く智慧」 大師さまは、般若の世界へ入る最初のところに、文殊の利剣を置かれたのではないでしょうか。 そして、その智慧によって真理と一つになること。 それが、仏の智慧 すなわち「般若」なのです。
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私たちは、仏になるために智慧を身につけるのではありません。 本来具わっている仏の智慧に気づくからこそ、「仏」として生きることができるのです。 弘法大師は、その智慧の世界を『般若心経秘鍵』の中で、少しずつ私たちに明かしてくださいます。 「般若」とは、知識が豊富という意味ではありません。 テストで良い点を取る力でもありません。 仏教でいう「般若」とは、物事の表面に惑わされず、本質を見抜く智慧です。 そして、その智慧によって真理と一つになること。 それが、仏の智慧「般若」なのです。
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