
『#岡村清三氏の軍歴・証言・講演叢書から18歳の回天特攻隊員の遺書を考察する 』→2020年8月11日産経新聞掲載https://xitter.cf/t.co/Bl3xu7WRIE。記者による書籍化→https://xitter.cf/t.co/r2D59AZaoM 『#漫画家やなせたかし氏の証言や書籍から弟・第三期兵科予備学生柳瀬千尋中尉の軍歴を考察する』回天・特型格納筒
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#漫画家やなせたかし氏の証言や書籍から弟・第三期兵科予備学生柳瀬千尋中尉の軍歴を考察する(1/5)漫画家やなせたかし氏の弟・柳瀬千尋氏は特攻隊の回天搭乗員や甲標的(特殊潜航艇)艇長ではありません。やなせ氏の死去から10年、まだ訂正できる段階だからこそ史実が認知されることを強く願っています
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ご遺族の方が所有している遺品や写真類をはなから公的資料と勘違いして「博物館に寄贈しろ」など言う人がいるが、まずは亡くなられた親族の遺品であるということを忘れてはいない。
ご遺族の心情第一に行動されて何ら問題はないと思う。
曾祖父漫画に関して、曾祖父の史料を所有している方から、ある団体での史料公開に協力するよう求められました。
しかし、遺族の気持ちが尊重されず、漫画の内容にまで口を出される状況で、私が時間と労力をかけて取り組んできたことを無償で利用されるのは嫌だと思い、お断りしました。
すると、自分勝手だと繰り返し非難され、何のためにこの漫画を描いていたのだろうと思うようになってしまいました。(出版社などとのトラブルではありません)
三笠にも行きたかった。曾祖父が見たもの、経験したことをもっと知りたかった。
漫画を面白いと言ってくださった方々には感謝しかありません。
いつかまた、楽しく描ける日が来るといいなと思います。
大津島基地「高橋謙」軍医中尉の回想より。大津島開隊当初、その居住環境の悪さから回天搭乗員に多くの疥癬患者が発生している。
『昭和19年9月、基地創設以来、相次ぐ増員で宿舎はパンクしそうになった。更に残暑が酷かった事もあって疥癬患者が続出し、訓練にも支障を来し始めた』
高橋軍医中尉の辞令は昭和20年3月1日(着任は2月22日)なので、回想は軍医長「井上章夫」軍医大尉からの伝聞と思われる。
回想を確認すると『相次ぐ増員』はその通りで、この9月は21日の甲飛13期100名をはじめ、海軍兵学校出身者、機関学校出身者が多数着任している。
開隊当初の回天搭乗員は42名。整備科などの下士官や兵を加えて上記増員となれば良好な居住環境は望めない。
また『更に残暑が酷かった』について。気象庁の「1944年9月下関市」の記録では最高気温が30度付近を上下している。夏場は暑い大津島、整っていない居住環境、疥癬の集団発生も無理からぬことだ。
訓練優先からであろう感染した回天搭乗員らの隔離記録はない。医務科も「軍医長・軍医・下士官と兵が5名」の分隊。これでは飛行服の洗濯やチアントール塗布をしても回想通り『焼け石に水』であった。
最終的に井上軍医大尉は海岸線に並べたドラム缶風呂で対応している。毎日訓練後に徳山湾を眺めながらのドラム缶風呂は聞こえがいい。だがおそらく疥癬患者の入浴毎に水を変えるので下士官・兵らは重労働だっただろう。
最後に個人的な考えであるが、昭和19年9月21日に第四期兵科予備学生50名が大津島に着任するも25日にQ基地へ引き返している。これは「宿泊施設不足」云々と書かれることが多い。確かにそれも理由だろうが、井上軍医長が疥癬の集団発生中に新たな感染予定者が来ることを強く拒んだのではないか。疥癬が収まる前に彼らが着任すればそれこそ訓練どころではなくなったであろう。
一部の回天搭乗員に配布された青酸カリ。配布理由は「真珠湾攻撃における酒巻少尉の二の舞を避けるため」。
回天作戦開始時の第六艦隊司令長官は「三輪茂義」中将(海兵39期)。三輪中将が単独で配布を決めたとは考えにくい。組織内で青酸カリ配布を提言した方がいるはず。
気に掛かるのが「佐々木半九」大佐(海兵45期)だ。
佐々木大佐は昭和19年12月21日付で「第六艦隊参謀長」となる。時期としては第二陣の金剛隊にあたる。しかしその5ヶ月前の昭和19年7月18日付で『補第一特別基地隊附』となっていた。
この『補第一特別基地隊附』発令の時期について、回天隊の幹部及び先任搭乗員らと比較する。
「黒木博司」大尉(海機51期)→7月10日(8月1日『補第一特別基地隊分隊長』→9月6日殉職)
「仁科関夫」中尉(海兵71期)→7月10日(後に菊水隊伊47潜先任搭乗員)
「板倉光馬」少佐(海兵61期)→8月5日(第一特別基地隊参謀)
「樋口孝」大尉(海兵70期)→8月15日(9月6日殉職)
「上別府宜紀」大尉(海兵70期)→8月15日(後に菊水隊伊37潜先任搭乗員)
「吉本健太郎」中尉(海兵72期)→9月1日(後に菊水隊伊36潜先任搭乗員)
7月18日付の辞令は「黒木」大尉「仁科」中尉に続くものだ。何より大津島基地指揮官となる板倉少佐よりも早い。
佐々木大佐が回天隊に関わったのは第一次特別攻撃隊指揮官(真珠湾)、第二次特別攻撃隊の東方先遣支隊指揮官(シドニー)という特型格納筒の運用経験からだろう。
潜水艦に搭載されて攻撃地点近くまで運ぶという「背負い式」は回天(泊地攻撃時)も特型格納筒も同様である。
その佐々木大佐は酒巻少尉捕虜の情報を乗艦していた伊22潜で確認している。捕虜について著書でこう触れている。
『当時は理由のいかんにかかわらず、捕虜は認めない時代であったから、気の毒な、かわいそうなことをした、困ったことになった、と複雑な気持ちであった。酒巻少尉は捕虜になってからアメリカ各地の捕虜収容所に転々と移され、幾たびか自決しようとしたという。しかし人間一度〇ぬ機会を失うと、そうそう簡単に〇ねるものではない』。
上記の『困ったことになった』は自身の面子や第六艦隊としての責任問題に通じるものだ。前述の『気の毒な、かわいそうなことをした』の一文は特別攻撃隊指揮官というよりも戦後の価値観を強く反映したものに見える。
第一次特別攻撃隊指揮官の立場で考えれば、第六艦隊もとい大日本帝国海軍が「捕虜を出す」ことがどのような意味なのか、何を汚すものになるのか、そこで最も望まれるものは何か、という考えに至るのは自然なことである。
その後、佐々木大佐は酒巻少尉の存在を徹底的に抹消する行動を見ている。海軍軍人としての「情け」という側面が青酸カリ配布の一要因であることも否めない。
しかし回天搭乗員へ配布された青酸カリは「忌物そのもの」である。特型格納筒と異なり回天には慣性信管と電気信管を備えた1.55tの炸薬がある。
その炸薬が搭乗員もろとも起爆することで任務を達成する。にもかかわらず何故配布する必要があるのだろうか。訝しむ軍医、不必要として返却した回天搭乗員、部下に渡せないと全て持って行った先任搭乗員、対応は様々であった。
青酸カリは誰もが歓迎しない「忌物そのもの」であった。
最後に、一部の回天搭乗員に配布された青酸カリは戦〇が定められた「回天搭乗員」に対して「更に確実に〇ね」と二重の〇を与えるものである。
青酸カリを配布したのは何故か?誰が提言したのか?その理由が「真珠湾攻撃における酒巻少尉の二の舞を避けるため」であるなら、佐々木大佐は決して無視できない存在である。
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創元社の矢部文治氏の遺稿集『本 三代』にも、氏が海軍予備学生として応召された時、一冊だけ持って行ったのか『万葉集』だったが、帰還するまで一度も読まなかったとゆう。 とあるが日本海軍で「予備学生として応召された」人は一人もおらず当人も予備学生ではなかったもの 当時の制度で予備学生は
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未だに人間魚雷回天は、ハッチをボルトや溶接で固定し開かないようにし出撃するという、無知な投稿をする輩がいますが、靖国神社や大津島回転記念館へ行き本物を見て来いよと言いたい。
写真は、アメリカから返還され靖国神社遊就館に展示されている回天一型改二、基地回天隊仕様のハッチです。
つづく















