今日の給食はカレーだ。今日はそのために学校に来たと言えよう。俺は誰よりも給食のカレーを楽しみにしている。人は俺を馬鹿にする。食い意地が張りすぎている、と。
言わせておけ。食い意地が張っていて当たり前だ。「美味い」という感覚がこの世界で最もリアルであり、アクチュアルだ。だってそうだろう?美味いカレーを食いながら桜を見たって「美味い」としか思わない。美味いカレーを食いながらピカソを見たって「美味い」としか思わない。「美味い」はそれを感じている瞬間、全世界を「美味い」で満たすのだ。つまり「世界=美味い」になるのだ。
人は言う。この世界に存在する価値は「真・善・美」であると。ほざけ。この世界に存在する価値は「美味い」ただそれだけだ。
人は言う。「美味い」なんてのは、ただ脳で発生した電気信号の結果に過ぎない、と。
ならば俺も言おう。ではその脳はどこにあるのか、と。お前が言うように我々の知覚が電気信号の結果に過ぎないのなら、もちろんお前が自分の頭蓋骨を切り開いて鏡で見た時に映る脳も、お前の脳が作り出した像ということになる。
問題。脳が自分自身の像を作り出すとはいかなる事態か。
人はこの問いに答えられない。認めたまえ。俺がカレーを食べる時に感じる「美味さ」は電気信号の結果などではない。俺がカレーを食べたことの結果だ。俺がカレーを食べる。だから美味いんだ。
「美味い」なんてものは人間だれしもが感じられるものであるから価値はない、と主張する人間がいる。それに対してロボットは「美味い」を感じられないのだから、「美味い」には価値がある、などと生ぬるい反論をする人間もいる。
まとめてクソ喰らえ。まずロボット。こいつらは美味いと感じることができるだろ!ロボットに舌をつけてやれ。ついでに消化器官も。オマケにお得意の脳も。どうだ!これで「美味い」が感じられるか!
実際に美味さを感じてるかどうか確かめようがない!だと?
ぬかせ!それは人間も同じだ!目の前の人間が「美味い」と感じているかどうかなんて誰がわかる?
いいか!「美味い」はいつも俺の手の中にある。藤木がカレーを食っても、さくらがカレーを食っても「美味」くはない。俺が食った時、「美味」いんだ。
ああ!こうは言っても頭がおかしくなりそうだ!なぜ俺だけ「美味」いんだ??
俺がカレーを食いながら望遠鏡で世界の果てを見たとしよう。この時、世界の果ては、「美味い」という感情によって後景へと押しやられる。カレーを食いながら世界のどこを見ても、それは「美味い」の背景にしかならんのだ。やはり俺が「美味い」時、世界は「美味い」のだ。
ああ、今、四限終わりの鐘が鳴った。給食が始まる。ごちゃごちゃと考えるのはやめよう。
世界が美味くなる時間だ。
















