白潟(入渠中) retweeted
【新育成シナリオ情報!】
新育成シナリオ「朋、史解き ―午式駿大祭―」のPVとScenarioページを公開しました!
新育成シナリオは10月26日(月)12:00に追加予定!
お楽しみに♪
■PV
youtu.be/ZIvf0nu9Nx8
■Scenarioページ
umamusume.jp/contents/game/s…
#ウマ娘 #ゲームウマ娘
白潟(入渠中) retweeted
『おねがい☆ティーチャー』新作映像が完成 「聖地」木崎湖のほとりで31日最速上映会(マグミクス)
#Yahooニュース
news.yahoo.co.jp/articles/dc…
白潟(入渠中) retweeted
良いまとめがあるじゃないか~
モンゴル、ヌムルグ自然保護区で大規模火災|KDDI子会社モビコムのCEOら、「狩猟」「アムールイトウ釣り」はどこから出てきたのか?
pelicanmemo.hatenablog.com/e…
白潟(入渠中) retweeted
9章といえばホルン隊長とバグパイプの第二テンペスト特攻隊な訳ですが。
田舎から出てきた純朴な娘さんを騙くらかして肌露出の多い衣装を着させてる背徳感を味わえるレースクイーンコーデは傑作と言っていいと思うんです。
私ですか?正気ですよ?
なんなら昨日数えた米粒の数を申し上げましょうか?
白潟(入渠中) retweeted
Fun fact: 85% of the world's CO2 is produced by the billionaires or their companies. There is NO way to tackle climate change without tackling the richest.
白潟(入渠中) retweeted
どちらの訳も不正解で、意外と英語は京言葉で状況的には椅子などにバッグが置いてあって座れない時に使う表現なので、"邪魔だからどかせや"が正解です
Is this bag yours?
たぶん半分くらいの人が誤訳します
あなたは正しく訳せますか?
よくある答案は
1️⃣これはあなたのかばんですか
2️⃣このかばんはあなたのですか
あなたの答えはどちらに近いですか?
2️⃣が正解です
1️⃣は完全な誤訳です
「だいたい意味は同じだからいいじゃないか」という声が聞こえてきそうですね
そういう雑な考え方、もっと言えばその知的怠惰さがあなたの足を引っ張っているのです
1️⃣は「主語、述語」を読み誤っています
「主語、述語」というのは小学校で習った
・何が、どうする
・何が、どんなだ
・何が、何だ
というやつです
英語が苦手な人は、日本語の時点でつまずいている
実はこれが日本の英語教育があまりうまくいっていない一因なのです
白潟(入渠中) retweeted
「確率」という概念がなかった時代、人類は想像以上に大雑把だった。「どちらが有利か・不利か」とか「どれくらい危険か」といったこともニュアンスでしか表現できない。実験結果も「たまたまこうなった」かもしれず、でも、「どれくらいたまたまか」がそもそも表現できない。これはいろいろ不便で、だからこそ確率の概念の誕生は画期的だった。
著者は語る。
「確率の歴史とは、不確実性をともなう推論を要する思考領域が、数学的方法によってしだいに植民地化されてきた物語だ」
「植民地化」という言葉はいささか穏やかではないけれど、実際そうである。1654年、パスカルとフェルマーが賭け金の分配問題をめぐって手紙を交わし、そこで確率論が生まれた。それ以前の人類は、偶然や不確かさをうまく扱えずに生きていた。
本書の出発点は古代ギリシアの法廷である。弁論家たちが使った「蓋然性からの論証」がことの発端になる。ある体の弱い男が屈強な男を殴ったとして訴えられたとき、弁論家は言う。弱い男が強い男に手を出すなど、ありそうにない。すると、相手の弁論家がこう言い返す。強い男は、まさにそう思われることを見越して安心して弱い男を殴ったのだ、と。
どちらも証拠ではなく「ありそうかどうか」で争っている。
アリストテレスはこの種の推論を『弁論術』で整理し、必然ではないが多くの場合そうなること、という意味の「エイコス」を論じた。確率という概念はまだない。しかし「ありそうさ」を比べ、その比較の上に判断を打ち立てる技術は紀元前の法廷にすでにあった。
確率論の一番太い鉱脈は中世の法だった。法学者たちは、証拠を「完全な証明」と「半証明」に分け、さらに「嫌疑」「推定」といった段階を設けて、どの程度の証拠があれば人を有罪にできるか、どの程度なら拷問にかけてよいかという恐ろしく実践的な問いに向き合っていた。信頼できる証人が2人そろえば完全な証明、1人なら半証明、といった具合に「確からしさ」を目算するのである。これも確率論ではない。でも、不確かさを段階づけ、段階ごとに許される行為を変えるという発想は、確率的推論そのものだとフランクリンは言う。
14世紀の法学者バルドゥスは証拠の重さをどう量るかを論じ、自然学者ニコル・オレームは、ある現象がどれほど頻繁に起きるかという相対頻度をもとに蓋然性を語っていた。著者によれば、オレームのこの発想は数学的確率を300年先取りしているという。不確かさの扱い方は、まず倫理と裁きの場で鍛えられた。
そして、中世末から近世にかけて、カトリックの神学者たちは「蓋然論」と呼ばれる考え方を発達させた。ある行為が許されるかどうか迷ったとき、権威ある学者の一定数がそれを是とするなら、その意見には蓋然性があり、従ってよいという理屈だ。イエズス会士がこれを緩く運用したことを、パスカルは1656年からの『プロヴァンシアル』で痛烈に批判した。つまり、確率の数学を切り拓いたその人が、同じ時期に「蓋然性」の神学を笑い飛ばしていたのである。
そして、いよいよ数学が絡んでくる。数学全般の水準が上がり、とくに「対称性」を見抜いてそれを現実に当てはめる方法が整ったことで、ようやく人類は確率を扱えるようになった。
本書は、パスカルが賭けの分配を考えるとき、二つの状況がプレーヤーにとって「まったく同等〔égal〕で差異はない〔indifférent〕」と述べたことを記している。この「同等で差異がない」という言い回しは、法の文書でも使われていた用語だった。つまり、確率の数学は無から生まれたのではなく、法と道徳の中で練られてきた「公平」や「同等」という感覚が数学的な対称性の操作と結びついたときに姿を現したと著者は言うのである。
確率の商業利用も同じ構図で進んでいく。第10章は、保険と年金と賭博を「射倖契約」という一つの括りで扱う。中世の教会は利子を禁じていたが、海上輸送の危険を引き受ける代わりに報酬を得る契約は、危険という不確かさを値づけするものとして神学者と法学者のあいだで是非が論じられた。中世の教会法学者が精密ではないにせよリスクの価格という考えをすでに持っていたのだ。
そして、賭けの話である。
先ほどの「対称性」を用いれば、サイコロの各面が同等であると捉え、その同等性を根拠に数を数え上げ、さらにその数を賭けの公平な分配という法的・道徳的な問題に接続することが数学的に可能になる。この三つがそろって初めて、蓋然性ははじめて確率になる。
冒頭の「植民地化」という言葉に立ち戻ろう。
確率の数学が整備されてから、ぼくらは不確かさの扱いを数字に委ねることを覚えた。降水確率、感染リスク、投資のリターン。数字は便利だし、数字にできるものは数字にしたほうがいい。でも、日々の重大な判断の大半は、人を信じるかどうか、この証言を採るかどうか、この判断が後で後悔を生むかどうかといった数字にならない蓋然性の領域で行っている。本書のエピローグの題は「非定量的蓋然性のサバイバル」で、数学に植民地化されなかった領域がいまも残っていることを著者は明言している。
中世の法学者は、証人1人分の確からしさで人を拷問にかけてよいかを真剣に議論した。それは野蛮でもあり、同時に、数字のない世界で不確かさに責任を持とうとするぎりぎりの誠実さでもあった。ぼくらは数字を手に入れた代わりに、その誠実さを数字に預けてしまっている。数字化できた不確かさより数字にならない不確かさのほうが人生の大半に影響を与えているのなら、なんでもかんでも「確率論的には〜」と言うことには、ある面で倫理の放棄が内在しているかもしれない。
と、なんとなく思った。
『「蓋然性」の探求 新装版 古代の推論術から確率論の誕生まで』ジェームズ・フランクリン著、南條郁子訳、みすず書房
白潟(入渠中) retweeted
目次を見るだけでも、うわぁ、って思うね。
(・ω・)
『心はこうして敵と味方をつくりだす』link.amazon/B0idAXzN7
本書、すげぇオモロイ。ぼくらは無意識に人々をウチとソトに分け、ウチに甘い評価を、ソトに厳しい評価をし、ソトの苦しみや悲しみに鈍感な反応をしてしまう。それが「我々vs.ヤツら」の敵対意識に発展する条件がいくつかある。特に画像の箇所は必見。「我々は偉大だが、正当に評価されていない」という意識が過剰な攻撃性を生むと指摘されている。これが近年注目されている集合的ナルシシズムだ。
ウチとソトが争いを始め、分断に至るために必要な条件には、①ウチの一員であるという自覚や「ウチの一員であること」がアイデンティティになっている状態がまずあり、そこに争いの火種が降って攻撃性として発火するか、あるいは②「われわれは優れている」という意識がソト集団を引き下げる行動に転化する、といったものがある。これは従来から指摘されてきたことだ。その上で本書は、集合的ナルシシズムという発火を大炎上に発展させかねない力学の重さをこの議論で示している。
おもしろい。
縄田健悟『心はこうして敵と味方をつくりだす』筑摩書房
白潟(入渠中) retweeted
本書、すげぇオモロイ。ぼくらは無意識に人々をウチとソトに分け、ウチに甘い評価を、ソトに厳しい評価をし、ソトの苦しみや悲しみに鈍感な反応をしてしまう。それが「我々vs.ヤツら」の敵対意識に発展する条件がいくつかある。特に画像の箇所は必見。「我々は偉大だが、正当に評価されていない」という意識が過剰な攻撃性を生むと指摘されている。これが近年注目されている集合的ナルシシズムだ。
ウチとソトが争いを始め、分断に至るために必要な条件には、①ウチの一員であるという自覚や「ウチの一員であること」がアイデンティティになっている状態がまずあり、そこに争いの火種が降って攻撃性として発火するか、あるいは②「われわれは優れている」という意識がソト集団を引き下げる行動に転化する、といったものがある。これは従来から指摘されてきたことだ。その上で本書は、集合的ナルシシズムという発火を大炎上に発展させかねない力学の重さをこの議論で示している。
おもしろい。
縄田健悟『心はこうして敵と味方をつくりだす』筑摩書房


































