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●昭和51年滋賀県守山市播磨田町生 ●守山市議会議員 ●日本が大好き ●地元 守山市が大好き ●子育てしやすい守山市を作る ●日本の農業を護る ●日本のエネルギー安全保障を護る ●日本の情報セキュリティを護る ●日本の自然を護る ●日本の子供たちを護る ●日本の歴史と文化を護る ●日本の未来を護る

滋賀県守山市播磨田町
Joined August 2023
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本日 皇紀2686年 令和8年10月1日 「日本大調和会」の設立記者会見を行いました。 私たちは何を目指すのか。 何を大切にし どのような政策を考えているのか。 まずは 私たち自身の言葉を きちんと公開することから始めます。 理念・基本的な考え方・政策など 5つの文書をGoogle Driveで公開しました。 ① 自主憲法 国民が参加し、日本の国のかたちを自分たちの手で考え、憲法案をつくります。 ② 国立日本歴史博物館 日本の歴史を史料に基づいて残し、全国で学び、未来へ伝える仕組みをつくります。 ③ 未来家族資本 生まれたすべての子どもに300万円を基本とする「育ちの資本」を届けます。 ④ 暮らしの基盤保障 住まい・食事・灯りなど、生きていくための暮らしの土台を保障します。 ⑤ 五つの国力 人口・資源・技術・経済・国防の五つの力を育て、日本の持続する力を高めます。 ぜひ一度 内容を読んでいただき ご自身で確かめていただければと思います。 そして 考え方に賛同いただける方は Googleフォームから 会員のお申込みをしていただけます。 まだ始まったばかりの 日本大調和会です。 一つ一つ 皆様にお示ししながら 歩んでまいります。 【記者会見資料】 ①日本大調和会 基本文章 ②日本大調和会 基本文章義解 ③日本大調和会 Q&A ④日本大調和会 滋賀守山党 滋賀3大政策 ⑤日本大調和会 滋賀守山党 滋賀3大政策 Q&A 上記5つを公開しております。 ぜひご覧ください。 drive.google.com/drive/folde… 【入会フォーム】 forms.gle/2cforqfuS3tGxv8k9
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遠方からお参りいただき、 ありがとうございました。 御英霊の方たちも喜んで おられると思います。 微力ですが、責任世代である私たちが 護持できるように頑張ります。
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「訓練」 歴史の転換点である今は、政治、哲学、心理学、社会学が重要であると誰もが認識しているはずです。それなのに業界内で、それに対処できる人はほとんどいません。彼らは形式的な訓練しか受けてないからです
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ひろやさん、こんにちは☔ 御教示くださりありがとうございます。 今週もよろしくお願いいたします。
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引けないから続ける、は合理的と言われるが、実際は判断を鈍らせる。受託の炎上案件でも、過去の工数ばかり話題になる。見るのは残りの費用だけ。僕は新規事業の前に、撤退の基準を先に決めている。
皇紀2686年 令和8年11月2日(月) おはようございます。 最高気温19℃ 最低気温12℃ 雨のち曇 降水確率 am70% pm40% 昼過ぎまで雨の予報です。 傘をお持ちになり 足元にお気を付けください。 ここまで犠牲を払ったのだから 今さら引けない。 それで次に犠牲になるのは 誰の息子でしょうか。 ◻️今日の出来事 石井・ランシング協定 1917年11月2日。 特使・石井菊次郎と 米国務長官ランシングが 中国を巡る協定を結びました。 日本は第一次世界大戦中の 1914年に青島を攻略。 翌年の対華二十一カ条要求では 山東の権益や南満洲での 権益延長などを求めました。 中国は最後通牒を受け 要求の一部を削った内容を受諾。 米国は中国の主権や門戸開放を 損なう動きを警戒していました。 協定で米国は日本の 「特殊利益」を承認します。 同時に日米は中国の主権と 領土保全 商業上の機会均等も確認。 特殊利益の解釈にはずれが残り 中国政府は他国同士の約束には 拘束されないと表明しました。 日本の利益を認めさせる外交と 中国の主権を守る約束が 一つの協定に並んでいたのです。 1919年のパリ講和会議では 山東の旧ドイツ権益を 日本へ継承させる方針が決まり 中国で五四運動が起こります。 中国代表はヴェルサイユ条約への 調印を拒否しました。 1922年のワシントン会議では 中国の主権尊重などを定めた 九カ国条約に調印。 並行した日中交渉は36回に及び 旧租借地の返還と 膠済鉄道の有償移管で合意します。 石井・ランシング協定は 1923年4月14日 日米の交換公文で廃棄されました。 協定が消えても 中国に持つ権益は残りました。 権益を守るために払った犠牲が 今度は撤退を拒む理由になる。 その過程を軍・財界・言論の 動きから考えたいと思います。 1931年に関東軍が満鉄線路を 爆破して満洲事変を起こします。 政府の不拡大方針を超えて 軍は進攻を続けました。 1937年7月の盧溝橋事件でも 日本政府は不拡大を掲げながら 増派を決定。 8月には上海へ戦闘が広がります。 占領地を広げても戦争は終わらず 駐留する兵と負担が積み重なります。 企業の事業も広がりました。 1937年の閣議決定では 鮎川義介の日産財閥を 満洲の重工業開発に迎え 政府が資金調達などを支援。 三井物産も軍の兵站や 占領地の物資の移動を担います。 投資や権益が積み上がれば 撤退は事業の損失にもなる。 これも 撤退の経済的・政治的負担を 増やした一因と考えます。 大阪朝日や大阪毎日は 戦果を伝えて販売競争を続け 占領地にも販路を広げました。 兵士や進出企業の社員が 新たな読者になります。 戦争は新聞にも商機でした。 勝利を期待する読者を増やした 報道が撤退をどう伝えるのか。 言論にも自らの姿勢を 問い直す責任がありました。 ロシア革命後には 大学や文壇に共産主義が広がり 政府は1925年に 治安維持法を制定。 朝日新聞記者だった尾崎秀実は 近衛内閣の 嘱託や昭和研究会で活動し ゾルゲの諜報網にも協力しました。 国策を語る言葉には 商売や思想の背景もありました。 誰がどんな立場から語るのかも 撤退を判断する側には問われます。 外交でも出口が狭まります。 1937年10月には日本は 九カ国条約関係国会議への 参加招請を拒否しました。 11月に広田弘毅外相が ドイツへ和平の仲介を要請。 中国側は12月に 当初の条件を基礎とする交渉に 応じる意向を示しました。 ところが南京陥落後 日本は賠償要求などを追加します。 中国側が条件の詳細を照会すると 日本は引き延ばしと判断。 1938年1月16日。近衛内閣は 「国民政府ヲ対手トセズ」と声明。 この和平交渉を打ち切りました。 講和条件を積み増したうえで 交渉の相手を否定する。 戦場の前進が 戦争の終結にはつながりません。 1941年の日米交渉でも 中国からの撤兵が争点になります。 11月5日に決定された甲案は 講和後も華北の一部などに おおむね 25年間の駐兵を求めました。 同日の御前会議で東條英機首相は 100万人の兵を出し 数百億円を費やしたと説明。 戦死者の遺族や負傷者も挙げ 成果を得るべきだとして 撤兵に反対しました。 特殊利益の維持と拡大に 費やした犠牲を理由に撤退を拒む。 私はそこに サンクコストの問題を見ます。 私も25年経営をしてきました。 投資を 回収したい気持ちは分かります。 しかし判断すべきは これからの見通しです。 守山の予算や事業でも 既に使った額や過去の賛成を 見直せない理由にはしません。 軍の独断を止め 企業の利益を国益と取り違えず 国力と戦費を見極めて和平を探る。 引く決断の責任も負う。 ここまで犠牲を払ったからと また誰かの息子を戦場へ送る。 それを覚悟とは呼べません。 皆様 お気を付けて 行ってらっしゃいませ。 『日本人ファースト!』 『繋がれNippon!! 咲き誇れNippon!!』 #北野ゆうこ #北野ひろや #日本大調和会 #滋賀守山党 #守山市
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ここまで犠牲を払ったからと 次の犠牲を求めてよいのか。 石井・ランシング協定を起点に 軍・財界・言論と外交の経緯から 日本が引けなくなった過程を たどりました。 引く決断の責任を負わずに 誰かの息子を戦場へ送る。 それを覚悟とは呼べません。 #北野ゆうこ #北野ひろや #日本大調和会 #滋賀守山党 #守山市
皇紀2686年 令和8年11月2日(月) おはようございます。 最高気温19℃ 最低気温12℃ 雨のち曇 降水確率 am70% pm40% 昼過ぎまで雨の予報です。 傘をお持ちになり 足元にお気を付けください。 ここまで犠牲を払ったのだから 今さら引けない。 それで次に犠牲になるのは 誰の息子でしょうか。 ◻️今日の出来事 石井・ランシング協定 1917年11月2日。 特使・石井菊次郎と 米国務長官ランシングが 中国を巡る協定を結びました。 日本は第一次世界大戦中の 1914年に青島を攻略。 翌年の対華二十一カ条要求では 山東の権益や南満洲での 権益延長などを求めました。 中国は最後通牒を受け 要求の一部を削った内容を受諾。 米国は中国の主権や門戸開放を 損なう動きを警戒していました。 協定で米国は日本の 「特殊利益」を承認します。 同時に日米は中国の主権と 領土保全 商業上の機会均等も確認。 特殊利益の解釈にはずれが残り 中国政府は他国同士の約束には 拘束されないと表明しました。 日本の利益を認めさせる外交と 中国の主権を守る約束が 一つの協定に並んでいたのです。 1919年のパリ講和会議では 山東の旧ドイツ権益を 日本へ継承させる方針が決まり 中国で五四運動が起こります。 中国代表はヴェルサイユ条約への 調印を拒否しました。 1922年のワシントン会議では 中国の主権尊重などを定めた 九カ国条約に調印。 並行した日中交渉は36回に及び 旧租借地の返還と 膠済鉄道の有償移管で合意します。 石井・ランシング協定は 1923年4月14日 日米の交換公文で廃棄されました。 協定が消えても 中国に持つ権益は残りました。 権益を守るために払った犠牲が 今度は撤退を拒む理由になる。 その過程を軍・財界・言論の 動きから考えたいと思います。 1931年に関東軍が満鉄線路を 爆破して満洲事変を起こします。 政府の不拡大方針を超えて 軍は進攻を続けました。 1937年7月の盧溝橋事件でも 日本政府は不拡大を掲げながら 増派を決定。 8月には上海へ戦闘が広がります。 占領地を広げても戦争は終わらず 駐留する兵と負担が積み重なります。 企業の事業も広がりました。 1937年の閣議決定では 鮎川義介の日産財閥を 満洲の重工業開発に迎え 政府が資金調達などを支援。 三井物産も軍の兵站や 占領地の物資の移動を担います。 投資や権益が積み上がれば 撤退は事業の損失にもなる。 これも 撤退の経済的・政治的負担を 増やした一因と考えます。 大阪朝日や大阪毎日は 戦果を伝えて販売競争を続け 占領地にも販路を広げました。 兵士や進出企業の社員が 新たな読者になります。 戦争は新聞にも商機でした。 勝利を期待する読者を増やした 報道が撤退をどう伝えるのか。 言論にも自らの姿勢を 問い直す責任がありました。 ロシア革命後には 大学や文壇に共産主義が広がり 政府は1925年に 治安維持法を制定。 朝日新聞記者だった尾崎秀実は 近衛内閣の 嘱託や昭和研究会で活動し ゾルゲの諜報網にも協力しました。 国策を語る言葉には 商売や思想の背景もありました。 誰がどんな立場から語るのかも 撤退を判断する側には問われます。 外交でも出口が狭まります。 1937年10月には日本は 九カ国条約関係国会議への 参加招請を拒否しました。 11月に広田弘毅外相が ドイツへ和平の仲介を要請。 中国側は12月に 当初の条件を基礎とする交渉に 応じる意向を示しました。 ところが南京陥落後 日本は賠償要求などを追加します。 中国側が条件の詳細を照会すると 日本は引き延ばしと判断。 1938年1月16日。近衛内閣は 「国民政府ヲ対手トセズ」と声明。 この和平交渉を打ち切りました。 講和条件を積み増したうえで 交渉の相手を否定する。 戦場の前進が 戦争の終結にはつながりません。 1941年の日米交渉でも 中国からの撤兵が争点になります。 11月5日に決定された甲案は 講和後も華北の一部などに おおむね 25年間の駐兵を求めました。 同日の御前会議で東條英機首相は 100万人の兵を出し 数百億円を費やしたと説明。 戦死者の遺族や負傷者も挙げ 成果を得るべきだとして 撤兵に反対しました。 特殊利益の維持と拡大に 費やした犠牲を理由に撤退を拒む。 私はそこに サンクコストの問題を見ます。 私も25年経営をしてきました。 投資を 回収したい気持ちは分かります。 しかし判断すべきは これからの見通しです。 守山の予算や事業でも 既に使った額や過去の賛成を 見直せない理由にはしません。 軍の独断を止め 企業の利益を国益と取り違えず 国力と戦費を見極めて和平を探る。 引く決断の責任も負う。 ここまで犠牲を払ったからと また誰かの息子を戦場へ送る。 それを覚悟とは呼べません。 皆様 お気を付けて 行ってらっしゃいませ。 『日本人ファースト!』 『繋がれNippon!! 咲き誇れNippon!!』 #北野ゆうこ #北野ひろや #日本大調和会 #滋賀守山党 #守山市
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投資を回収したい気持ちは 経営をしてきた私にも分かります。 しかし続ければ取り戻せるのか。 その見通しを確かめる責任があります。 守山の予算や事業でも 既に使った額や過去の賛成を 見直せない理由にはしません。 これからの負担と効果で判断します。 #北野ゆうこ #北野ひろや #日本大調和会 #滋賀守山党 #守山市
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英霊顕彰館は滋賀県出身の英霊のお写真が沢山あり 各市町村出身の英霊のお写真 思わず長居をしてきました 珍しく,館内撮影は良しとの事でしたが,私はとても英霊のお写真を撮る事はできません よって、台を真ん中に置いて お酒、緑茶、タバコをお供えさせて頂きました 少しでも英霊の皆様に喜んで頂ければと思い 私の主義なんです お供えは
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皇紀2686年 令和8年11月2日(月) おはようございます。 最高気温19℃ 最低気温12℃ 雨のち曇 降水確率 am70% pm40% 昼過ぎまで雨の予報です。 傘をお持ちになり 足元にお気を付けください。 ここまで犠牲を払ったのだから 今さら引けない。 それで次に犠牲になるのは 誰の息子でしょうか。 ◻️今日の出来事 石井・ランシング協定 1917年11月2日。 特使・石井菊次郎と 米国務長官ランシングが 中国を巡る協定を結びました。 日本は第一次世界大戦中の 1914年に青島を攻略。 翌年の対華二十一カ条要求では 山東の権益や南満洲での 権益延長などを求めました。 中国は最後通牒を受け 要求の一部を削った内容を受諾。 米国は中国の主権や門戸開放を 損なう動きを警戒していました。 協定で米国は日本の 「特殊利益」を承認します。 同時に日米は中国の主権と 領土保全 商業上の機会均等も確認。 特殊利益の解釈にはずれが残り 中国政府は他国同士の約束には 拘束されないと表明しました。 日本の利益を認めさせる外交と 中国の主権を守る約束が 一つの協定に並んでいたのです。 1919年のパリ講和会議では 山東の旧ドイツ権益を 日本へ継承させる方針が決まり 中国で五四運動が起こります。 中国代表はヴェルサイユ条約への 調印を拒否しました。 1922年のワシントン会議では 中国の主権尊重などを定めた 九カ国条約に調印。 並行した日中交渉は36回に及び 旧租借地の返還と 膠済鉄道の有償移管で合意します。 石井・ランシング協定は 1923年4月14日 日米の交換公文で廃棄されました。 協定が消えても 中国に持つ権益は残りました。 権益を守るために払った犠牲が 今度は撤退を拒む理由になる。 その過程を軍・財界・言論の 動きから考えたいと思います。 1931年に関東軍が満鉄線路を 爆破して満洲事変を起こします。 政府の不拡大方針を超えて 軍は進攻を続けました。 1937年7月の盧溝橋事件でも 日本政府は不拡大を掲げながら 増派を決定。 8月には上海へ戦闘が広がります。 占領地を広げても戦争は終わらず 駐留する兵と負担が積み重なります。 企業の事業も広がりました。 1937年の閣議決定では 鮎川義介の日産財閥を 満洲の重工業開発に迎え 政府が資金調達などを支援。 三井物産も軍の兵站や 占領地の物資の移動を担います。 投資や権益が積み上がれば 撤退は事業の損失にもなる。 これも 撤退の経済的・政治的負担を 増やした一因と考えます。 大阪朝日や大阪毎日は 戦果を伝えて販売競争を続け 占領地にも販路を広げました。 兵士や進出企業の社員が 新たな読者になります。 戦争は新聞にも商機でした。 勝利を期待する読者を増やした 報道が撤退をどう伝えるのか。 言論にも自らの姿勢を 問い直す責任がありました。 ロシア革命後には 大学や文壇に共産主義が広がり 政府は1925年に 治安維持法を制定。 朝日新聞記者だった尾崎秀実は 近衛内閣の 嘱託や昭和研究会で活動し ゾルゲの諜報網にも協力しました。 国策を語る言葉には 商売や思想の背景もありました。 誰がどんな立場から語るのかも 撤退を判断する側には問われます。 外交でも出口が狭まります。 1937年10月には日本は 九カ国条約関係国会議への 参加招請を拒否しました。 11月に広田弘毅外相が ドイツへ和平の仲介を要請。 中国側は12月に 当初の条件を基礎とする交渉に 応じる意向を示しました。 ところが南京陥落後 日本は賠償要求などを追加します。 中国側が条件の詳細を照会すると 日本は引き延ばしと判断。 1938年1月16日。近衛内閣は 「国民政府ヲ対手トセズ」と声明。 この和平交渉を打ち切りました。 講和条件を積み増したうえで 交渉の相手を否定する。 戦場の前進が 戦争の終結にはつながりません。 1941年の日米交渉でも 中国からの撤兵が争点になります。 11月5日に決定された甲案は 講和後も華北の一部などに おおむね 25年間の駐兵を求めました。 同日の御前会議で東條英機首相は 100万人の兵を出し 数百億円を費やしたと説明。 戦死者の遺族や負傷者も挙げ 成果を得るべきだとして 撤兵に反対しました。 特殊利益の維持と拡大に 費やした犠牲を理由に撤退を拒む。 私はそこに サンクコストの問題を見ます。 私も25年経営をしてきました。 投資を 回収したい気持ちは分かります。 しかし判断すべきは これからの見通しです。 守山の予算や事業でも 既に使った額や過去の賛成を 見直せない理由にはしません。 軍の独断を止め 企業の利益を国益と取り違えず 国力と戦費を見極めて和平を探る。 引く決断の責任も負う。 ここまで犠牲を払ったからと また誰かの息子を戦場へ送る。 それを覚悟とは呼べません。 皆様 お気を付けて 行ってらっしゃいませ。 『日本人ファースト!』 『繋がれNippon!! 咲き誇れNippon!!』 #北野ゆうこ #北野ひろや #日本大調和会 #滋賀守山党 #守山市
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皇紀2686年 令和8年11月2日(月) おはようございます。 最高気温19℃ 最低気温12℃ 雨のち曇 降水確率 am70% pm40% 昼過ぎまで雨の予報です。 傘をお持ちになり 足元にお気を付けください。 ここまで犠牲を払ったのだから 今さら引けない。 それで次に犠牲になるのは 誰の息子でしょうか。 ◻️今日の出来事 石井・ランシング協定 1917年11月2日。 特使・石井菊次郎と 米国務長官ランシングが 中国を巡る協定を結びました。 日本は第一次世界大戦中の 1914年に青島を攻略。 翌年の対華二十一カ条要求では 山東の権益や南満洲での 権益延長などを求めました。 中国は最後通牒を受け 要求の一部を削った内容を受諾。 米国は中国の主権や門戸開放を 損なう動きを警戒していました。 協定で米国は日本の 「特殊利益」を承認します。 同時に日米は中国の主権と 領土保全 商業上の機会均等も確認。 特殊利益の解釈にはずれが残り 中国政府は他国同士の約束には 拘束されないと表明しました。 日本の利益を認めさせる外交と 中国の主権を守る約束が 一つの協定に並んでいたのです。 1919年のパリ講和会議では 山東の旧ドイツ権益を 日本へ継承させる方針が決まり 中国で五四運動が起こります。 中国代表はヴェルサイユ条約への 調印を拒否しました。 1922年のワシントン会議では 中国の主権尊重などを定めた 九カ国条約に調印。 並行した日中交渉は36回に及び 旧租借地の返還と 膠済鉄道の有償移管で合意します。 石井・ランシング協定は 1923年4月14日 日米の交換公文で廃棄されました。 協定が消えても 中国に持つ権益は残りました。 権益を守るために払った犠牲が 今度は撤退を拒む理由になる。 その過程を軍・財界・言論の 動きから考えたいと思います。 1931年に関東軍が満鉄線路を 爆破して満洲事変を起こします。 政府の不拡大方針を超えて 軍は進攻を続けました。 1937年7月の盧溝橋事件でも 日本政府は不拡大を掲げながら 増派を決定。 8月には上海へ戦闘が広がります。 占領地を広げても戦争は終わらず 駐留する兵と負担が積み重なります。 企業の事業も広がりました。 1937年の閣議決定では 鮎川義介の日産財閥を 満洲の重工業開発に迎え 政府が資金調達などを支援。 三井物産も軍の兵站や 占領地の物資の移動を担います。 投資や権益が積み上がれば 撤退は事業の損失にもなる。 これも 撤退の経済的・政治的負担を 増やした一因と考えます。 大阪朝日や大阪毎日は 戦果を伝えて販売競争を続け 占領地にも販路を広げました。 兵士や進出企業の社員が 新たな読者になります。 戦争は新聞にも商機でした。 勝利を期待する読者を増やした 報道が撤退をどう伝えるのか。 言論にも自らの姿勢を 問い直す責任がありました。 ロシア革命後には 大学や文壇に共産主義が広がり 政府は1925年に 治安維持法を制定。 朝日新聞記者だった尾崎秀実は 近衛内閣の 嘱託や昭和研究会で活動し ゾルゲの諜報網にも協力しました。 国策を語る言葉には 商売や思想の背景もありました。 誰がどんな立場から語るのかも 撤退を判断する側には問われます。 外交でも出口が狭まります。 1937年10月には日本は 九カ国条約関係国会議への 参加招請を拒否しました。 11月に広田弘毅外相が ドイツへ和平の仲介を要請。 中国側は12月に 当初の条件を基礎とする交渉に 応じる意向を示しました。 ところが南京陥落後 日本は賠償要求などを追加します。 中国側が条件の詳細を照会すると 日本は引き延ばしと判断。 1938年1月16日。近衛内閣は 「国民政府ヲ対手トセズ」と声明。 この和平交渉を打ち切りました。 講和条件を積み増したうえで 交渉の相手を否定する。 戦場の前進が 戦争の終結にはつながりません。 1941年の日米交渉でも 中国からの撤兵が争点になります。 11月5日に決定された甲案は 講和後も華北の一部などに おおむね 25年間の駐兵を求めました。 同日の御前会議で東條英機首相は 100万人の兵を出し 数百億円を費やしたと説明。 戦死者の遺族や負傷者も挙げ 成果を得るべきだとして 撤兵に反対しました。 特殊利益の維持と拡大に 費やした犠牲を理由に撤退を拒む。 私はそこに サンクコストの問題を見ます。 私も25年経営をしてきました。 投資を 回収したい気持ちは分かります。 しかし判断すべきは これからの見通しです。 守山の予算や事業でも 既に使った額や過去の賛成を 見直せない理由にはしません。 軍の独断を止め 企業の利益を国益と取り違えず 国力と戦費を見極めて和平を探る。 引く決断の責任も負う。 ここまで犠牲を払ったからと また誰かの息子を戦場へ送る。 それを覚悟とは呼べません。 皆様 お気を付けて 行ってらっしゃいませ。 『日本人ファースト!』 『繋がれNippon!! 咲き誇れNippon!!』 #北野ゆうこ #北野ひろや #日本大調和会 #滋賀守山党 #守山市
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皇紀2686年 令和8年11月2日(月) おはようございます。 最高気温19℃ 最低気温12℃ 雨のち曇 降水確率 am70% pm40% 昼過ぎまで雨の予報です。 傘をお持ちになり 足元にお気を付けください。 ここまで犠牲を払ったのだから 今さら引けない。 それで次に犠牲になるのは 誰の息子でしょうか。 ◻️今日の出来事 石井・ランシング協定 1917年11月2日。 特使・石井菊次郎と 米国務長官ランシングが 中国を巡る協定を結びました。 日本は第一次世界大戦中の 1914年に青島を攻略。 翌年の対華二十一カ条要求では 山東の権益や南満洲での 権益延長などを求めました。 中国は最後通牒を受け 要求の一部を削った内容を受諾。 米国は中国の主権や門戸開放を 損なう動きを警戒していました。 協定で米国は日本の 「特殊利益」を承認します。 同時に日米は中国の主権と 領土保全 商業上の機会均等も確認。 特殊利益の解釈にはずれが残り 中国政府は他国同士の約束には 拘束されないと表明しました。 日本の利益を認めさせる外交と 中国の主権を守る約束が 一つの協定に並んでいたのです。 1919年のパリ講和会議では 山東の旧ドイツ権益を 日本へ継承させる方針が決まり 中国で五四運動が起こります。 中国代表はヴェルサイユ条約への 調印を拒否しました。 1922年のワシントン会議では 中国の主権尊重などを定めた 九カ国条約に調印。 並行した日中交渉は36回に及び 旧租借地の返還と 膠済鉄道の有償移管で合意します。 石井・ランシング協定は 1923年4月14日 日米の交換公文で廃棄されました。 協定が消えても 中国に持つ権益は残りました。 権益を守るために払った犠牲が 今度は撤退を拒む理由になる。 その過程を軍・財界・言論の 動きから考えたいと思います。 1931年に関東軍が満鉄線路を 爆破して満洲事変を起こします。 政府の不拡大方針を超えて 軍は進攻を続けました。 1937年7月の盧溝橋事件でも 日本政府は不拡大を掲げながら 増派を決定。 8月には上海へ戦闘が広がります。 占領地を広げても戦争は終わらず 駐留する兵と負担が積み重なります。 企業の事業も広がりました。 1937年の閣議決定では 鮎川義介の日産財閥を 満洲の重工業開発に迎え 政府が資金調達などを支援。 三井物産も軍の兵站や 占領地の物資の移動を担います。 投資や権益が積み上がれば 撤退は事業の損失にもなる。 これも 撤退の経済的・政治的負担を 増やした一因と考えます。 大阪朝日や大阪毎日は 戦果を伝えて販売競争を続け 占領地にも販路を広げました。 兵士や進出企業の社員が 新たな読者になります。 戦争は新聞にも商機でした。 勝利を期待する読者を増やした 報道が撤退をどう伝えるのか。 言論にも自らの姿勢を 問い直す責任がありました。 ロシア革命後には 大学や文壇に共産主義が広がり 政府は1925年に 治安維持法を制定。 朝日新聞記者だった尾崎秀実は 近衛内閣の 嘱託や昭和研究会で活動し ゾルゲの諜報網にも協力しました。 国策を語る言葉には 商売や思想の背景もありました。 誰がどんな立場から語るのかも 撤退を判断する側には問われます。 外交でも出口が狭まります。 1937年10月には日本は 九カ国条約関係国会議への 参加招請を拒否しました。 11月に広田弘毅外相が ドイツへ和平の仲介を要請。 中国側は12月に 当初の条件を基礎とする交渉に 応じる意向を示しました。 ところが南京陥落後 日本は賠償要求などを追加します。 中国側が条件の詳細を照会すると 日本は引き延ばしと判断。 1938年1月16日。近衛内閣は 「国民政府ヲ対手トセズ」と声明。 この和平交渉を打ち切りました。 講和条件を積み増したうえで 交渉の相手を否定する。 戦場の前進が 戦争の終結にはつながりません。 1941年の日米交渉でも 中国からの撤兵が争点になります。 11月5日に決定された甲案は 講和後も華北の一部などに おおむね 25年間の駐兵を求めました。 同日の御前会議で東條英機首相は 100万人の兵を出し 数百億円を費やしたと説明。 戦死者の遺族や負傷者も挙げ 成果を得るべきだとして 撤兵に反対しました。 特殊利益の維持と拡大に 費やした犠牲を理由に撤退を拒む。 私はそこに サンクコストの問題を見ます。 私も25年経営をしてきました。 投資を 回収したい気持ちは分かります。 しかし判断すべきは これからの見通しです。 守山の予算や事業でも 既に使った額や過去の賛成を 見直せない理由にはしません。 軍の独断を止め 企業の利益を国益と取り違えず 国力と戦費を見極めて和平を探る。 引く決断の責任も負う。 ここまで犠牲を払ったからと また誰かの息子を戦場へ送る。 それを覚悟とは呼べません。 皆様 お気を付けて 行ってらっしゃいませ。 『日本人ファースト!』 『繋がれNippon!! 咲き誇れNippon!!』 #北野ゆうこ #北野ひろや #日本大調和会 #滋賀守山党 #守山市
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一昨日、念願の滋賀護国神社へ参拝を済ませました 時間かない為、彦根城は行けませんでした どちらも異常なぐらい、人が多かったです 何かイベントがあったみたいです
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👋😊
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✊🔥🍀
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おはようございます✊🔥🍀
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ご夫婦共々頑張って下さい👍
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おはよう御座います。今週も宜しくお願いします🙏
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👍
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おはようございます🇯🇵🌤️🙇✨🍀😊
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北野夫妻おはようございます! お疲れ様です✨
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おはようございます🙇‍♂️ 今日は あいにくの雨( ͜☔️ ・ω・) ͜☔ 北野夫妻も お気をつけて行ってらっしゃいませーーーーーーーーー🫡
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