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自力でロサンゼルス公演ステークスの皆さまとお写真を撮っていたところ、Umadacchiの皆さまがびっくりするくらいたくさん集まってくださいました🫨
この瞬間は私の人生の宝物です。本当に来て良かった😭🙏
いつか必ずみんなで「UMA IN AMERICA」しましょう❣️ウマ娘大好き❣️
#頑張れCygames
@uma_musu
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ドラゴンボールZ Sparking! METEOR
曲:Super Survivor
歌:影山ヒロノブ
作詞:森由里子
作曲:山本健司
#ドラゴンボールZスパーキングメテオ
Replying to @MenmaIkari
Además esa traducción de "adicto a las peleas" es exagerada. El audio dice "Sento baka" (cabeza hueca de los combates). Es un modismo japonés para decir que Goku es apasionado de las batallas y olvida la prudencia ante un Dios. No dice que es un idiota o estupido. Es como siempre
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再度、いま話題になっている『無職転生』の「問題点」と「その答え」について可能なかぎり短く!わかりやすく!ぼくの考えを書いておくね。
まず、今回の騒動の問題点というか論点は「『無職転生』の主人公が作中で性的加害を行い、なおかつその報いを受けていないこと」だと思います。
批判派はそれを問題として挙げ、擁護派はいや問題ではないと主張するわけです。
それでは、ある作品のキャラクターが作中で加害行為や犯罪行為を行うこと、さらにその報いを受けないことの何が問題なのでしょうか。
結局のところ、それはぼくたち(の大半)が「物語の主人公は善人であるべきである」、そして「悪事は作中で裁かれるべきである」という「勧善懲悪」と「因果応報」の原則をどこかで信じているからです。
いわゆる「悪役」が加害的な悪事を働いただけならだれも問題視しなかったでしょう。
無惨さまや幻影旅団が悪いことをやるのはあたりまえだから。
主人公のくせに悪いことをしてしかも報いを受けていない、というところが問題になっているわけです。
しかし、一方ではその「勧善懲悪」と「因果応報」はべつに物語や文学の絶対法則でも何でもないわけです。
べつに悪人が主人公で最後まで罰を受けることなく生き抜いてもかまわない。
そういう作品は文学史上にはいくらでもある。
ただ、『無職転生』の主人公ルーデウスは完全な悪人でもなくて、わりと善いこともする。
どこまでいっても「中途半端」な奴です。ぼくはこの「中途半端さ」が議論を呼ぶ根幹なのではないかと思うのです。
善人だったら善人、悪人だったら悪人であればわかりやすいのだけれど、そう断定できない。
その「断定できなさ」が「いや悪人だろ!」、「そうはいっても善人だよね」と意見を分ける理由になる。
で、ぼくはじっさいにはそこでそもそもそうやって「善人」と「悪人」を分けることそのものが不可能であり、また因果が正しく応報しない物語もありえると主張します。
その意味で『無職転生』はエンターテインメントとしてギリギリのところまで「非勧善懲悪」と「非因果応報」をめざしているようにも見えます。
いや、べつだんカフカみたいな不条理文学ではないので基本的かつ最終的には「正義は勝つ」わけですが、細かく見ていくとところどころそのようなぼくらの一般的な感覚では「理不尽」と感じられるポイントが見つかるわけです。
「ターニングポイント1」のフィットア領消滅事件とか、何の罪もない人たちが大量に死んでいるわけで。
でも、そういう話なんですよね。
それはすべてにおいて悪が裁かれ努力が報いられ正義が勝利する作品を求める人には不満でしょう。
それでは、そういう「理不尽」な作品はあってはいけないのか?
物語のなかとはいえ、何か悪事を犯した人間は即ち「悪人」であり、のうのうと生きていってはいけないのか?
ぼくはそここそが「真の論点」だと思います。
あなたはどう思いますか?
ぜんぜん短くならなかった……。おしまい。
>人間は善人と悪人に分けれます。
そうですか……。そこまで素朴に断言されると少し困りますが、伝わるかどうかわからないけれど、なるべくわかりやすくこちら側の意図を説明しましょう。
えーとですね、べつに「善と悪、被害と加害は相殺しあう」という話をしているんじゃないんです。
善は善、悪は悪。それはそう。
しかし、善行をなしたら善人、悪行を犯したら悪人、というほど人間は単純ではない、といっているのです。
倫理的に正しい行動と悪い行動というものは、それ自体ときとして判別困難ではあるにしても、あるでしょう。
ですが、倫理的に許されない行動を犯した人間であっても「ザ・悪人」という記号ではない。
ある悪辣な行動を取った人間のなかにも、真心や、優しさや、愛情や、愛された思い出や、暴力的な欲求といった複雑な人間性がありえる。
もちろん、そういった感情なり記憶があるからといってその人の罪が免責されるわけではありません。
たしかに悪は悪であり、罪は罪だからです。ただ、そういった善行や罪悪によってその人の人間性が二分されるわけではないということなんです。
「悪には悪の救世主が必要」とおっしゃっていますね。
これは『ジョジョの奇妙な冒険』第三部のンドゥールのセリフからの引用でしょう。
しかし、現実の人間は少年マンガのキャラクターのように明確に善側と悪側に分けられることはまれです。
現実世界においては大半の人間が善と悪のあいだを行き来しており、仮に生涯いっさい何の悪も成さなかったとしても、悪の誘惑に駆られることはありえるはず。
その意味でその人が「善人」として生きられたことは大きく偶然の影響を受けています。
何かひとつ違っていたらかれもまた悪を成していたかもしれない。違いますか。
そして、いまとなっては少年マンガであっても善悪に分けられない複雑な人間性を描いています。
もし『ジョジョ』を続けて読んでおられるなら、現在、『ジョジョ』第九部の主人公ジョディオ・ジョースターが麻薬の売人であることはご存知でしょう。
その意味ではかれは悪を成している。
しかし、一方でジョディオには明確に家族や仲間を思う心があります。
ジョディオは「善人」でしょうか? それとも「悪人」なのでしょうか?
あなたの理屈でいうなら「悪人」であり「ヒーロー的な行動を取っていてもクズはクズ」であるはずですよね。
ですが、そういった評価によって、かれへの理解がすべて尽くされるわけではありません。
ジョディオのなかにある友情や家族愛、火のような野心に共感することと、かれの悪行を肯定することもまたべつのことです。
あなた自身、「クズ人間の中にヒーロー性があったっていい」と語っていますね。その点はぼくも同意します。
ただ、だからこそ、そのヒーロー性や人間としての弱さ、哀しさに感情移入した読者をひとくくりに「クズ人間」と断言できる根拠がわかりません。
ある人物のある感情を理解することは、その人物のすべての行為を支持することではないのですから。
世界の文学史上には(そしてアニメやマンガにも)シンプルに善悪で割り切れない人間性を描いた名作がたくさんあります。
もちろん、マクベスは悪人、ジャン・バルジャンは悪人、ラスコーリニコフは悪人、ルーデウスも悪人。それでおしまいにすることもできなくはない。
ただ、じっさいにはマクベスやラスコーリニコフが犯した罪を認めながら、かれらの欲望や恐怖、そのまさに人間的な葛藤を理解することは可能です。
それはべつだん罪悪の正当化ではありません。かれらの犯した罪を罪と認めることと、その人物への洞察をそこで打ち切ってしまうことは違うのだということ。
ぼくが異議を唱えているのは、ある罪を責めることではなく、その罪だけでひとりの人間のすべてを説明しきれると思い込み、さらにはかれに共感したり感情移入したりする読者の人格まで一方的に決めつけることです。
なるほど、そうやっていつまでもXで自分が「悪人」とか「クズ」とみなしたあいてを「善人」の立場から攻撃して満足していればしあわせではあるのかもしれない。
しかし、そういった「自分たちは善、あいて側は悪」と前提してひとを攻める姿勢はオタク側が「女性」や「フェミ」を共感不可能なモンスターとみなして糾弾し攻撃する態度の鏡写しでしかありません。
いいかげんそういうしょうもない次元の話はやめませんか、といっているのです。
こう書くときっとオタクからも批判が寄せられるだろうけれど、ぼくは『無職転生』に非難が集まること自体は理解できるのです。
なるほど、ルーデウスは気持ち悪い性犯罪を犯している。それは悪だし、罪だ。倫理的には許されないし、感情的にも受け入れがたい。
その「罪」を責めることそのものはいたって正当でしょう。
けれども、一方でそれはルーデウスの一面であってすべてではない。人間とはそんな単純なものじゃないからです。
そう、あえて誤解を恐れずいうなら、ヒトラーだろうがスターリンだろうがポル・ポトだろうが、その加害があまりにも巨大で重大なものであることを認めるとしてもなお、そういった一面だけを見て単純には語れないはずです。
かれらですらまた決して悪魔でも怪物でもなく、ただのひとりの人間であるに過ぎないからです。
じっさい、ヒトラーを主人公にした映画も色々ある。人間をあくまで人間として見るとはそういうことであり、それこそが人類がえいえいと生み出してきた物語というものの価値、また『無職転生』のテーマなのだと思います。
ひとの罪や責任は追及するにしても、その人格そのものを全否定することはしない。できない。それが自分自身の独善を避けるということの意味でしょう。
そしてぼくは自分自身もまた無垢ではありえないことを自覚するがゆえに、あえて他者の存在と尊厳を否定しないことを選ぶ。まさにルーデウスがヒトガミに対してそうしたように。
たとえそれが自分自身にとって都合よいことではなく、ただ無邪気に幸福なままではいられないとしてもね。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(新約聖書「ヨハネによる福音書」第八章)
ぼくはひたすら石を投げ合うことにはうんざりです。あなたは、どうですか。

























