これは、忘れられたパンデミックと言うべきです。
厚生労働省が作成した明治期の日本国内におけるコレラのパンデミックを表したグラフです。二つ目のピークは明治19年になります。バルトン先生は、こういう地獄のような状況下の明治20年、実務に詳しい衛生工学の専門家として招聘されたわけです。
明治のウーバーイーツ。ほかほかご飯のお弁当を配達するニーズがあったようですが、ちくま学芸文庫の『弁当の誕生』を買おうかどうしようか、迷い中なり。目次を見る限り、明治時代のことはあまり書いてなさそうです。
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築地の外国人居留地です。バルトン先生は帝大構内に住んでいましたが、小川一真たちと乾板国産化事業の拠点があったので、よく通っていました。煙突はなんでこの色なんでしょうね? 屋根から角が生えてるみたいですw
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樋口一葉が明治23年2月7日の夕方、摩利支天を参詣したのは亥の日の縁日だったからだろうなあと思い、ついでに日記に記された切通し坂の電話交換処の所在地がわかればと思うのですが。
なお、上野の摩利支天さんは、ニキニキニキニキ二木の菓子のところです。
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これはバルトン先生が撮影した明治23年6月に発生した本郷大火以降の春日通りの光景です。
明治26年2月7日の夕方、本校菊坂下の家に住んでいた樋口一葉が、上野徳大寺摩利支天を参詣した後、ここを通りがかっています。
(続く)
帰路、切通し坂のあたり、けしきいふべくもあらず。(中略)郵便局の燈かがやきて、脚夫の行来をるよりしげく、電話交換処のいそがはしげなる。警察に出入る人の二重廻し深々とゑりを立てしは採偵と覚しく、金ぼたん、角帽子の二人三人づれに立入る寄席は女義太夫也。














