

ALT 「別に」 ため息をひとつ溢した絵名は仕方なく風船を受け取り、息を吹き込んだ。すると風船は少し膨らんだものの、すぐに萎んでいった。その様子を見ていたまふゆが驚いたように目を丸くする。 「……本当に?」 「~~~っ、本当、だってばっ!」 息を切らした絵名にまふゆは思案するように顎に手を当てて、もはや心配するような表情で絵名を見る。 「ちゃんと運動した方がいいよ」 「言い返せないのがむかつく……まふゆもやってみてよ。どうせ余裕だろうけど」 頷いたまふゆはミクから風船を受け取ると、空気を肺に送り込むために息を吸い込んだ。

ALT それほど大きな動作には見えなかったが、まふゆの胸元がぐっと大きく膨らんだように絵名には見えた。 「わ、すごい」 風船の口にまふゆが唇をくっつけてすぐ、風船はどんどんと膨らんでいった。それにレンが感嘆の声を上げ、ミクとリンも膨らんでいく風船を見る。絵名も同じように眺めていたが、やがてその表情は困惑したものへと変わっていった。 「ちょ、ちょっと、それ以上は割れちゃうんじゃないの!?」 絵名の慌てた声にまふゆは彼女の方をちらりと見て、風船の口を指で閉じ唇を離した。 「まだ膨らませられる」 絵名やニーゴのメンバーにしかわからない程度ではあるが、どこか得意げな顔をするまふゆに絵名は呆れた顔を向ける。

ALT 高校三年生の初夏。梅雨に入る前に、絵名と二人で出かける機会があった。ナイトコードでイマーシブアート展の話題を出した絵名が一緒に行く人を募集したけど、予定が空いているのが私しかいなくて。当日は、ころころと変わる絵名の表情を眺めながら私も展示を楽しんだと思う。絵名なりの考え方をこんな風に知る機会も、二人でゆっくり出かけなければなかなかないだろうし、それもたぶん面白かった。 ニーゴのみんなと居る時とはまた違った歩幅が足に馴染んで、その帰り、日が沈み切る前の絵名との分かれ道でのこと。 「じゃあまふゆ、またナイトコードでね」 さらりとした髪が夕陽に透けて、その光と、絵名の笑った顔が、綺麗に見えて。 ぱっと心に花が咲いたように。私は彼女に恋をした。

ALT 苦し紛れの言い訳に、絵名は「ならいいけど」と言った。 『雪、ため息なんて珍しいね?』 ナイトコードでの作業中に、瑞希に指摘されたことがあった。眠るために絵名が落ちたのと同時、私はため息を吐き出したらしい。自覚のない行動に驚いている私に、姿は見えていない瑞希が追い打ちをかけるように投げかけた言葉が、ぐるぐると頭で巡っている。 『もしかして、恋のため息とか? なんちゃってー』 恋のため息。柚子の花言葉だ。柑橘系の植物特有の甘い香りが、その花言葉の由来になったとされている。 柚子の実がなるには、十年以上かかるらしい。どこかでインプットした情報が自然と頭に浮かんで、でも、そもそもこの恋が実ることはあるのだろうかと。考えたところでわかりもしないことが頭を過った。

ALT 本当の想いというものは、ひとつだけではないのだと思う。 絵名と一緒に居たいと思う気持ちも、絵名から離れていたいと思う気持ちも、どちらも私にとって本当だから。 高校三年生の夏休みだった。 日差しもなく、適温に保たれたセカイに私は絵名を呼び出していた。 「どうしたの?」 ホログラムと共に現れた絵名が、先にセカイに居た私の元にやってきた。 『話したいことがあるから、セカイにきてほしい』 そのメッセージには、数時間後に返事がきた。絵画教室の夏期講習に行っていた絵名は、講習のあとすぐにメッセージを返してくれたようだった。『何時ごろがいい?』と確認の連絡がきて、絵名の都合の良い時に、と返すと『今からセカイ行くね』と、返してくれた。 その時にはもう私はセカイに居て、ミクと少し話をしているところだった。たぶん、緊張を解したくて、私はミクと話していた。 「ちょっと、絵名と二人で話してくる」 「わかった」 歩き出した私に不思議そうな顔をしながら、絵名は後を着いてきてくれた。 心臓が、いつもより早く動いている気がする。それをわざわざ確認することもなく、絵名の方を振り返り、絵名と目を合わせた。絵名が短い間隔で瞬きを二回したのを見てから、私は口を開いた。

ALT 「絵名のことが、好き」 「……えっ」 「……だめだった?」 「いや、だめとかは、ないけど……一応聞くんだけど、それって、どういう意味の」 「絵名が、私だけを見てくれたら、って思う。絵名の傍に居たいって、思う。……そういう、好き」 絵名は驚いた顔をした後、口をすぐに引き結んで、それから照れ臭そうにいつも編んである髪を触った。 「……じゃあ、告白するために呼び出したの?」 「うん」 「わざわざ? まふゆが?」 「うん」 確認する必要があることなのだろうか。淡々と私が答えると、絵名がその場にしゃがみ込んだので、私も絵名の前で同じようにしゃがむ。顔を覗き込むと、頬を赤くした絵名と目が合った。 「……告白するなら、私からだと思ってた。でも、ごめん。付き合うのは、すぐには無理」 「どうして?」 「今は、受験に集中したい。あんたと今付き合っちゃったら、私たぶん落ちちゃう」 「私、勉強の邪魔しないよ?」 「……私が、色々我慢できなくなりそうなのっ」 きっと睨むような目に、けど、瞳が涙で微かに潤んでいたから、怖いとは少しも思わなかった。 「じゃあ、受験が終わるまで待っててもいい?」

ALT 「……あんたってそんなかわいかったっけ」 首を傾げると、ため息を吐いた絵名にくしゃくしゃと髪を撫でられた。 「うん、待ってて」 優しい顔と声で、絵名はさっき乱した私の髪を整えるように、それもまた優しい手つきで撫でてくれた。心地よくて思わず目を閉じると、絵名の笑い声が耳に届いた。 はっきりとした『好き』は言ってもらえなかったけど。絵名が、私のことを想ってくれていることは十分わかったから、私は満足だった。 ◇ 告白から受験、大学への入学までは、あっという間だった。私も絵名も無事志望校に合格することができて、五月に入った今、それぞれ大学生活を忙しく過ごしている。 夢のために、やらなければいけないことがたくさんあって。やってみたいことも、たくさん増えてきていて。充実した日々を過ごしている。けど。 絵名とは、まだちゃんと話せていない。入学して一週間が経った頃に、話したいと連絡をしたけれど、お互いのスケジュールがうまく噛み合わず、会えていない状態だ。お互いに大学生活に慣れてからきちんと話す方が良いかと考えて、それ以降はあまり絵名に連絡を取っていない。 好きな気持ちは変わらずある。むしろ、会えない間に気持ちは増してすらいると思う。同時に、絵名とは一緒に居るべきではないのかもしれない、そんなことを考え始めていた。

ALT 受験の時、私と付き合うことを保留にした絵名は、要するに私と居ると目の前のことに集中できなくなる、と言っていた。だとすれば、夢をまっすぐに追いかけている絵名の隣に、私は居て良いのだろうか。そう、悩み始めた。 そもそも、絵名は今でも私のことを想ってくれているのだろうか。どちらにせよ、約束をないがしろにするような人ではないから、このままの状態が続くとは思っていないけど。 「……はあ」 ため息を吐いたところで、何も解決はしない。 気分転換にセカイに向かおうと、私はスマホを手に取った。 今では近付けるようになった湖の方に向かうと、奏の姿があった。目を閉じて、湖から聞こえてくる曲を聴いているようだ。静かに近付いて隣に腰掛けると、奏は私に気付いてこちらを見た。 「まふゆ。久しぶりだね」 「うん。一人でこっちに居るの、珍しいね」 「ちょっと、曲作りに行き詰まっちゃって。まふゆも息抜きにきたの?」 「……で、いいのかな」 奏はしばらく私の顔を見ると、眉を微かに寄せて心配するような目をした。 「大丈夫、そういうのじゃなくて……絵名とのことで、少し悩んでて」 「絵名?」 首を傾げた奏に、絵名に告白したことと、関係は保留状態であること。一緒に居たいとは思うけど、絵名の迷惑になるのではないか、とも思っていること。































